エルサレム旧市街、神殿の丘/ハラム・シェリーフの西側を支える擁壁。前19年頃に…
エルサレムの神殿の丘の北西角に、ヘロデ大王が前35年ごろ築いた要塞。ローマの後ろ盾を得た王が、神殿を見おろし守るために、四隅に塔をもつ宮殿のような要塞を建て、後援者マルクス・アントニウスにちなんで名づけた。70年、ローマ軍によって破壊された。
§1 — 概要古代エルサレムの神殿の丘の北西角に建っていた要塞である。ローマの後ろ盾を得たユダヤの王ヘロデ大王が、神殿を見おろし、これを守るために築いた。王はこの要塞を、後援者であったローマの将軍マルクス・アントニウスにちなんで「アントニア」と名づけた。現在は失われ、岩盤に残るわずかな痕跡をとどめるのみである。
この場所には、かつてハスモン朝が築いた「バリス」と呼ばれる砦があった。ヘロデは前35年ごろ、これを建て直して壮大な要塞へとつくりかえた。要塞には、祭礼などの折にローマの守備隊が置かれ、神殿の境内をうかがう拠点となった。
新約聖書には、ここを兵営として、捕らえられた使徒パウロが連れて行かれた場面が記される。長く、ローマ総督ポンティオ・ピラトがイエスを裁いた「プラエトリウム」の地とも伝えられてきたが、近年の研究では、それは街の西の丘にあったヘロデの宮殿であったとする見方が有力である。70年、ローマ軍はエルサレムを攻略するなかでこの要塞を奪い、神殿への道を開くために、その基礎まで取り壊した。
要塞は、切り立った岩の上に建てられ、四隅に塔をそなえていた。とりわけ神殿を見おろす南東の塔は、ほかより高く築かれていたという。1世紀の歴史家ヨセフスは、その内部が広間や中庭、浴場を備え、まるで宮殿のようであったと伝えている。岩の斜面はなめらかな石で覆われ、よじ登るのを阻んだ。
アントニア要塞は、ローマの支配と、ヘロデ大王の旺盛な造営事業とを象徴する建築であった。神殿を見おろすその位置は、宗教の中心を政治の力が見張るという、当時の緊張をそのまま表していた。建物そのものは失われたが、ヨセフスの記述を通じて、その壮大な姿が今に伝えられている。