嘆きの壁 Western Wall
エルサレム旧市街、神殿の丘/ハラム・シェリーフの西側を支える擁壁。前19年頃にヘロデ大王が着手した造成の遺構で、ユダヤ教の祈りの場であり、イスラームではブラークの壁と呼ばれる。
§1 — 概要概要
嘆きの壁は、エルサレム旧市街にある人工の台地——ユダヤ教とキリスト教が「神殿の丘」、イスラームが「ハラム・シェリーフ(高貴なる聖域)」と呼ぶ場所——の西側を支える擁壁である。ヘブライ語ではハ=コテル・ハ=マアラヴィ(西の壁)、アラビア語ではハーイト・アル=ブラーク(ブラークの壁)という。日本語で慣用の「嘆きの壁」は19世紀の欧米で広まった呼称の訳であり、ユダヤ教徒自身はほとんど用いない。
「西の壁」は狭義と広義で指すものが異なる。広義には全長488メートルの擁壁全体を、狭義にはそのうち祈りに用いられる57メートルの露出部分を指す。
歴史
神殿の丘はもともと不整形な小さな台地であった。これを人工的に拡張し、ほぼ矩形の広大な平坦面に変えたのが、前19年頃に始まるヘロデ大王の大工事である。西の壁は、その盛土と地下構造を支えるために築かれた擁壁の西面にあたる。つまりこの壁は、それ自体が礼拝施設として構想されたのではない。造成のための土木構造物であった。
70年に神殿が破壊されたのち、擁壁は残った。この場所をユダヤ教の祈りの場として言及しうる最古の史料は10世紀のもので、現在見える壁を「西の壁」と呼んだ用例としては11世紀の詩人アヒマアツ・ベン・パルティエルが最も古い。キリスト教ローマ支配下(324年頃〜638年)、ユダヤ教徒は神殿崩壊を悼むティシュアー・ベアーヴの日を除きエルサレムへの立ち入りを禁じられていた。イスラームの伝承では、預言者ムハンマドが「夜の旅」の際に天馬ブラークをつないだ場所とされる。
ムスリム支配下では、壁はハラム・シェリーフの一部かつモロッコ人地区のワクフ財産とされたが、ユダヤ教徒の祈りと巡礼の権利は「現状(ステータス・クオ)」規定の一部として長く存続した。この立場は、英国委任統治期の1930年に国際委員会によって確認されている。
20世紀初頭のシオニズム運動の伸長とともに、壁は摩擦の焦点となった。ムスリム側は、壁が神殿の丘、ひいてはエルサレムに対するユダヤ側の主張の足がかりに使われることを警戒した。壁の足下での衝突は常態化し、1929年の暴動ではユダヤ人133人とアラブ人116人が死亡している。1948年の第一次中東戦争後、東エルサレムはヨルダンの支配下に入り、ユダヤ人は旧市街から退去させられて、以後19年間この場所での祈りは行われなかった。1967年6月10日、第三次中東戦争を経てイスラエルが同地の支配を得る。その3日後、イスラエル当局はモロッコ人地区をブルドーザーで撤去し、現在の広場を造成した。
建築的特徴
祈りの場の壁は、基礎から数えて総高約32メートル、うち地上部が約19メートル。石材は45層に積まれ、28層が地上、17層が地下にある。
地上の下から7層がヘロデ期の仕事で、メレケ石灰岩の巨大な切石を積む。多くは2〜8トンだが、ウィルソン・アーチのやや北にある一石は長さ13.55メートル、高さ3.3メートル、推定250〜300トンに達する。
ヘロデ期の石を一目で見分けさせるのは、各石の四周に彫り込まれた幅5〜20センチ、深さ1.5センチほどの縁取りである。この額縁が石ごとに細い影の線を落とし、目地を強調する。巨大な壁面が単調な塊にならないのはこの処理による。量で圧倒するのではなく量を分節して見せる意匠であり、ヘロデ期の建築を通じて反復される特徴である。ヘロデ期には壁の上部10メートルは厚さ1メートルほどで、神殿基壇の二重列柱の外壁を兼ね、ピラスターで装飾されていたが、628年にビザンツ帝国がペルシアからエルサレムを奪回した際に破壊された。
その上の4層は8世紀ウマイヤ朝期の、さらに上の16〜17層はマムルーク朝期の、最上部はオスマン帝国期の、いずれも小ぶりな石である。壁は一時代の作品ではなく、二千年にわたる補修の累積として立っている。
意義・現在
建築史から見れば、この壁の価値は、ヘロデ期の石工技術と、地形を人工の台地へ変える古代の土木の規模を、現地でそのまま体験できる点にある。
ただし、この場所を建築史の対象としてのみ扱うことはできない。西の壁は、神殿の丘への立ち入りが制限されるなかでユダヤ教徒が祈ることを許された最も神聖な場所であり——至聖所の推定位置がこの壁のすぐ上・背後にあたるとされる——同時に、アル=アクサー・モスクを含むハラム・シェリーフの西境をなす。両者の帰属と管理をめぐる対立は現在も継続しており、エルサレム全体の地位の問題と不可分である。本項はこの点についていずれの立場も採らず、事実関係のみを記す。
擁壁のうち露出しているのは、祈りの場のほか、南側のロビンソン・アーチ付近の約80メートルと、鉄の門近くの約8メートル(「小さな西の壁」)にすぎず、残りはムスリム地区の建物の背後に隠れている。1981年、「エルサレムの旧市街とその城壁」の構成資産としてユネスコ世界遺産に登録された。