ミフリマー・スルタン・ジャーミイ (エディルネ門) Mihrimah Edirnekapı Mosque
イスタンブール旧市街の最高所、テオドシウスの城壁に近いエディルネ門に建つオスマン朝のモスク。スレイマン大帝の娘ミフリマー・スルタンが発注し、宮廷主席建築家ミマール・スィナンが設計した。壁面の大半を窓が占め、スィナン作中でも屈指の明るい内部空間をもつ。
§1 — 概要概要
ミフリマー・スルタン・ジャーミイ(Mihrimah Sultan Camii)は、イスタンブール旧市街の西端、テオドシウスの城壁が市街を画するエディルネ門(Edirnekapı)に建つ16世紀オスマン朝のモスクである。半島でもっとも標高の高い第六の丘の頂に据えられ、城壁越しに姿を見せる市の目印となってきた。発注者はスレイマン大帝(スレイマン1世)と寵姫ヒュッレムの娘ミフリマー・スルタン、設計は宮廷主席建築家ミマール・スィナンが担った。スィナンがミフリマーのために手がけた二つの同名モスクのうち、アジア側ユスキュダルに建つもう一基に対し、こちらは規模が大きく後に成った方にあたる。
歴史
建設の経緯を記す定礎銘は残らない。現存する文書から、着工は1563年ごろ、竣工は1570年までと推定される。完成後のモスクは、イスタンブールを繰り返し襲った地震に幾度も損なわれてきた。1719年にはミナレット内部の階段が崩れ、1766年の地震では尖塔と主ドームが倒壊した。1894年の大地震では再び尖塔が倒れ、北西の隅を破って堂内へ落下している。その後1956–57年に修復されたが、1999年のイズミット地震でドームが再び傷んだ。2007年から2010年にかけての修復では、モスク本体と尖塔上部が整えられ、中庭の舗装、中央の泉の復原、さらに失われていた外側の前廊の再建(当初は二重前廊だが内側のみが残っていた)が行われた。
建築的特徴
平面はほぼ正方形の立方体で、その上に半球のドームを一つ載せる、単一ドームの明快な構成をとる。ドームは四隅に立つ角塔状の支柱と、それらを結ぶ四つの大アーチに支えられ、方形の平面から円のドームへの移行にはペンデンティヴが用いられる。四方の壁には、アーチの下に多数の窓を穿った半月形のティンパヌム(妻壁)が開き、ドームの基部にも窓が連なる。その結果、壁面の大半が窓で占められ、堂内はスィナンの諸作のなかでも際立って明るい。窓の一部にはステンドグラスがはめられる。ドームは直径20メートル、高さ37メートルに及ぶ。南北の側面では花崗岩の柱が支える三連アーチが側廊へ開き、その上に三つのドームを架けたギャラリーが載る。礼拝室への入口は、大理石と花崗岩の柱が立つ七つのドーム架構の玄関廊を抜ける。細く高いミナレットは一基。内部の型押し装飾はいずれも近代のものだが、白大理石を彫り出したミンバル(説教壇)は創建時のものが伝わる。
意義・現在
モスクは単体ではなく、キュッリイェ(複合宗教施設)の中核として築かれた。当初は神学校(メドレセ)、二棟一対の浴場(ハマム)、墓廟(テュルベ)、そしてテラスの下に並ぶ店舗群(アラスタ)を備え、店舗の賃料が複合体の維持を支えた。ハマムは今日も使われている。発注者ミフリマー自身はスレイマニエ・モスクに葬られ、本モスク背後の墓廟には、娘婿の大宰相セミズ・アリ・パシャをはじめ一族が眠る。城内最高所という立地と、窓に満たされた軽やかな内部は、古典期オスマン建築を代表するスィナンの達成のひとつである。なお「ミフリマー」はペルシア語で「太陽と月」を意味し、春分の日にこのモスクの背後へ陽が沈むとき、アジア側ユスキュダルの同名モスクの背後から月が昇る、との言い伝えが知られる。史実として確かめられたものではないが、二基のモスクと発注者の名を結ぶ物語として語り継がれてきた。