クトゥブ・ミナール Qutb Minar
デリー南郊メヘラウリーに立つ高さ72.5メートルの尖塔。1199年ごろクトゥブッディーン・アイバクが着工した勝利の塔にしてミナレットであり、インド亜大陸に残る最古級のイスラーム建築である。
§1 — 概要概要
クトゥブ・ミナールは、デリー南部メヘラウリーに立つ高さ72.5メートルのミナレットである。イスラーム勢力による北インド支配の開始を記念する勝利の塔でもあり、基部の直径14.3メートルに対して頂部は2.75メートルと、塔身は上へ向けて鋭く絞り込まれる。周囲にはクワットゥル・イスラーム・モスク、4世紀に遡る鉄柱、アラーイー・ダルワーザ、未完のアラーイー・ミナールなどが残り、一帯は1993年に世界遺産「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群」として登録された。
歴史
1192年、ゴール朝が北インドを制圧し、その武将クトゥブッディーン・アイバクがデリーに拠点を置いた。塔の建設はモスクに続いて1199年ごろ始められている。名は建設者アイバクにちなむとも、13世紀のスーフィーの聖者クトゥブッディーン・バフティヤール・カーキーにちなむともいわれる。アイバクの代に積まれたのは第1層のみで、上層は奴隷王朝のイルトゥトゥミシュ(在位1211–1236)が引き継ぎ、1220年ごろまでに四層が立ち上がった。1368年、落雷で頂部が崩れると、トゥグルク朝のフィールーズ・シャーが上層を積み直し、大理石を交えた層と頂部の亭を加えて現在の五層となった。1505年の地震ではシカンダル・ローディーが修復し、1803年の地震の後には英領期の技師が手を入れている。1828年にロバート・スミスが載せた亭は様式が合わないとして1848年に取り外され、今も敷地の一角に置かれている。1981年に階段で群衆事故が起きて以来、内部は公開されていない。
建築的特徴
塔身は五層からなり、各層の境に持ち送りで支えたバルコニーが巡る。バルコニーを受ける腕木はムカルナス状に段を重ねた形で、深い陰影の帯となって塔を水平に区切る。下三層は赤色砂岩で、角型と円型の縦溝が層ごとに異なる組み合わせで刻まれ、見上げるにつれて断面の表情が変わる。上二層はフィールーズ・シャーによる積み直しで、白大理石と砂岩を交互に用いる。壁面には、クルアーンの章句や建設者の事績を刻んだ帯状の銘文が幾重にも巻きつく。書体はクーフィー体とナスヒー体を併用するが、実際に石を刻んだのが在地のヒンドゥー教徒の石工であったため、文字列に乱れがあることが指摘されている。隣接するクワットゥル・イスラーム・モスクでも同じ事情が見てとれる。碑文の記すところによれば、破壊された二十七のヒンドゥー教・ジャイナ教寺院の部材が転用され、正面のアーチのスクリーンは楔石を用いる真のアーチではなく、石を持ち送って架けたコーベルアーチで築かれている。
意義・現在
インドにおけるイスラーム建築の出発点を示す作例である。塔状のミナレットは南アジアでは長く一般化せず、17世紀に至るまで例は少ない。またこの塔はモスクの本体から離れて立ち、記念碑としての性格が強い。同時代の比較対象としては、アフガニスタンのジャームのミナレット(1190年ごろ)が挙げられる。両者はいずれも銘文と幾何学文で全面を覆う点で共通するが、クトゥブ・ミナールは煉瓦ではなく砂岩を刻んで築かれ、その彫りの深さは在地の石造技術に負っている。導入された形式と在地の手が組み合わさって生まれた過渡的な姿こそが、この塔の建築史的な価値である。現在はインド考古局の管理下にあり、周囲は遺跡公園として整備されている。