トレチャコフ美術館 Tretyakov Gallery
モスクワにあるロシア美術の最大の殿堂。実業家パーヴェル・トレチャコフが1856年から集めたロシア絵画を母体とし、1892年に市へ寄贈された。画家ヴァスネツォフが構想したおとぎ話のようなネオ・ロシア様式のファサード(1902〜1904年)で知られる。
§1 — 概要概要
トレチャコフ美術館(Государственная Третьяковская галерея)は、モスクワ川の南、ザモスクヴォレチエ地区に建つ、ロシア美術を専門とする美術館である。中世のイコンから20世紀初頭の絵画まで、ロシア美術の流れを通覧できる世界随一のコレクションで知られる。建物は実業家トレチャコフの邸宅を母体としながら、画家ヴィクトル・ヴァスネツォフが意匠を構想したおとぎ話のようなファサードによって、美術館そのものがロシアの民族的造形を体現する一棟となっている。
歴史
モスクワの織物商であったパーヴェル・トレチャコフは、1850年代にロシア人画家の作品を集め始めた。最初の作品を購入した1856年が、美術館の創設年とされる。西欧美術の優位に対してロシアの民族美術を支援しようとした彼は、収集を私的な趣味にとどめず、公開を当初から構想していた。コレクションの増大に合わせてザモスクヴォレチエの邸宅には次々と展示室が増築され、1892年、トレチャコフは約2,000点に及ぶコレクションと建物をモスクワ市へ寄贈した。翌1893年に市立の美術館として正式に開館する。トレチャコフの没後の1902〜1904年、邸宅の正面は画家ヴァスネツォフの下絵に基づいて統一的なネオ・ロシア様式へと改められ、現在まで美術館の顔となっている。実施設計はV・バシキロフ、施工監理はA・カルムィコフが担った。
建築的特徴
ヴァスネツォフが与えたファサードは、17世紀のモスクワの邸宅やテレムの造形を意識的に呼び戻したネオ・ロシア様式(ロシア・リバイバル)による。赤い壁面に白い装飾を対置し、半円形のココーシュニクを連ねた破風や、花文をあしらった色彩豊かな装飾帯が正面を飾る。中央上部には、創設者の名と寄贈の由来を記した飾り板が掲げられている。建物全体は、おとぎ話に出てくる塔屋(テレム)のような外観をもち、内部に収めるロシア絵画の民族的な性格と呼応している。20世紀を通じて隣接する建物へと拡張され、17世紀の聖ニコライ聖堂なども館の一部に取り込まれた。
意義・現在
トレチャコフ美術館は、一個人の情熱から出発した私的コレクションが国民的な美術館へと育った稀有な例である。レーピンやクラムスコイらの移動派(ペレドヴィージニキ)の絵画、ヴルーベリの幻想的な作品、そしてルブリョフの《三位一体》をはじめとする中世イコンの名品を収め、ロシア美術史を一望できる場となっている。ヴァスネツォフの民話的なファサードは、収蔵品とともに、19世紀末から20世紀初頭にロシアが自国の文化的な根を見つめ直したナショナル・ロマンティシズムの気運を今に伝えている。建物は現在もロシアの連邦指定文化財として保護され、モスクワ有数の美術館として多くの来館者を集めている。