カイロ北東部の市街地の下に埋もれた古代エジプトの聖都。太陽神ラー=アトゥムの一大祭祀地イウヌであり、九柱神とベンベン石の神学が生まれた場所である。神殿は中世カイロの石材に転用され、今はセンウセレト1世のオベリスクが位置を示すのみである。
§1 — 概要概要
ヘリオポリスは、下エジプト第13ノモスの中心であり、古代エジプトの太陽神信仰における最大の聖地であった都市である。エジプト名はイウヌ(jwnw、「柱(の町)」の意)、旧約聖書ではオンと呼ばれ、ギリシア人が太陽神ヘリオスの名を冠して「太陽の都市」と呼んだのが現在の名の由来である。遺構の大半は、現在のカイロ北東部マタリーヤとアイン・シャムスの市街の地下15〜20メートルに埋もれている。建築の実物がほとんど失われているにもかかわらず、その神学がピラミッドやオベリスクの形を規定した点で、エジプト建築史の起点に位置する。
歴史
先王朝時代から人が住み、古王国・中王国期に大きく発展した。ピラミッド・テキストはこの都市を「ラーの家」と呼ぶ。主神殿はアトゥムに捧げられ、その神官団は、原初の水から自ら生じたアトゥム=ラーを万物の始まりとする創世神話を掲げた。第5王朝期にラー信仰の位置づけが変わると、九柱神(エンネアド)の体系が整えられ、主要な神々がラー=アトゥムの下に序列づけられる。太陽の化身とされたムネヴィス牛の祭祀もここで営まれた。
第18王朝のアクエンアテンは、この地にアテン神殿を築いた。その石材は後に中世カイロの城門へ転用され、今も一部を確認できる。プトレマイオス朝期には学問の中心という地位をアレクサンドリアに譲り、前1世紀にストラボンが訪れたときには神殿はほぼ無人で、市街も荒廃していた。ローマ期以降オベリスクは次々と運び出され、中世にはカイロとフスタートの建設需要のなかで、遺跡そのものが採石場として扱われた。
建築的特徴
神殿の平面は、ほとんど分かっていない。地上に残るのは、畑のなかに顔を出す日干し煉瓦の市壁の一部と、ラメセス2世の名を刻む花崗岩の切石、そして一本のオベリスクである。
このオベリスクは、第12王朝のセンウセレト1世が紀元前1942年ごろ、王の祝祭に際してラー=アトゥム神殿の前に建てたもので、高さ約21メートル、重量約120トンの赤色花崗岩の一本石である。現在も本来の位置に立っており、今日まで立ち続けているオベリスクとしては世界最古とされる。その尖端はベンベン石——原初の丘を表す聖石——の形を写したものと考えられており、日の出の光を最初に受ける点として意味づけられた。ピラミッドの頂点も同じ観念に連なる。神殿の建材は、この神学を石の幾何学へ翻訳する装置であった。
意義・現在
ヘリオポリスのオベリスクは、帝国の記念物として世界へ散った。カリグラが運ばせたとされる一本はローマのサン・ピエトロ広場に立ち、アウグストゥスが運んだ一本はモンテチトーリオ広場にある。「クレオパトラの針」と呼ばれる二本は、19世紀にロンドンとニューヨークへ渡った。神殿の石材が中世カイロへスポリアとして吸収されたことと合わせ、この都市は解体され再配置されることで存在を続けたといえる。
発掘は現在も続いており、2017年にはマタリーヤで、プサムテク1世のものとされる巨像の断片が引き上げられて注目を集めた。住宅街の下から神殿都市が少しずつ現れる状況は、遺跡の保護と都市生活の折り合いという難題も突きつけている。