アブ・シンベル神殿 Abu Simbel
エジプト南端、ナイル川西岸の岩山を掘り抜いた岩窟神殿。ラムセス2世が前13世紀に自らと王妃ネフェルタリのために築き、大神殿の正面には高さ20mを超える王の座像が4体並ぶ。ダムによる水没を避けるため、1960年代に丘の上へ移築された。
§1 — 概要概要
アブ・シンベル神殿は、エジプト南端、スーダン国境に近いナイル川西岸に築かれた岩窟建築の神殿である。新王国時代第19王朝の王ラムセス2世が造営し、王自身とアメン=ラー、ラー・ホルアクティ、プタハに捧げた大神殿と、王妃ネフェルタリおよび女神ハトホルに捧げた小神殿の二つからなる。石材を積み上げたのではなく、砂岩の崖そのものを掘り込んでつくられており、正面に並ぶ巨像も、奥へ続く列柱も、すべて掘り残された岩である。
歴史
建設は前1264年頃に始まり、およそ20年をかけて前1244年頃に終わったとされる。当時のヌビアはエジプトが支配する金と交易品の供給地であり、ラムセス2世はこの辺境に壮大な神殿を刻むことで、支配の正当性を目に見えるかたちにしようとした。国境に面した崖へ王自身の巨像を彫り出す選択は、信仰の場であると同時に政治的な宣言でもある。
やがて神殿は打ち捨てられ、砂に覆われた。前6世紀にはすでに砂が巨像の膝まで達していたという。1813年、スイスの東洋学者ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトが小神殿と大神殿上部の浮彫を確認し、1817年にイタリアの探検家ジョヴァンニ・ベルツォーニが入口の砂を掘り出して内部に到達した。
1960年代、アスワン・ハイ・ダムの建設により水没が確実となる。ユネスコの呼びかけによるヌビア遺跡救済の国際キャンペーンのもと、1964年から1968年にかけて神殿は精密に切り分けられ、約60m高い丘の上、川から約200m後退した位置へ移された。移設先にはコンクリートのドームで人工の丘が築かれ、その内部に神殿が組み直された。事業はワルシャワ大学の考古学者カジミェシュ・ミハウォフスキが監督した。
建築的特徴
大神殿の正面には、高さ20mを超えるラムセス2世の座像が4体並ぶ。足元には母や妃、子どもたちが小さく刻まれ、王と他の存在との格差が寸法そのもので示される。向かって左から2体目の像は完成の数年後の地震で崩れ、砕けた頭部は今も脚元に転がったままである。
内部は崖の奥深くまで掘り進められている。多柱式の広間にはオシリス神の姿をとった王の立像柱が並び、壁面には北にカデシュの戦い、南にシリア・リビア・ヌビアとの戦いを描いた浮彫が広がる。最奥の至聖所には、プタハ、アメン=ラー、神格化されたラムセス2世、ラー・ホルアクティの4体の座像が据えられる。年に2回、朝日が入口から一直線に差し込んで奥の像を照らすが、冥界の神プタハだけは光の届かない位置に置かれている。移築の結果、この日付は本来より1日ずれた。
小神殿には6体の立像が並び、うち4体が王、2体がネフェルタリである。いずれもほぼ同じ高さに刻まれており、王妃が王と対等の大きさで表されている点が注目される。
意義・現在
移築は、建築を保存するという営みそのものを変えた。国境を越えて資金と技術を集めたこの事業は、人類共通の遺産という考え方を実地に示し、1972年の世界遺産条約とそれに基づく制度を生む直接の契機となった。神殿自体も「アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群」の構成資産として1979年に世界遺産に登録されている。
いっぽうで、現在のアブ・シンベルは本来の岩山にはない。掘り抜かれた岩であることが本質だった建築が、切り出されて人工の丘に貼り直された。原位置を離れた遺跡はなお真正でありうるのかという問いを、この神殿は自らの姿で示している。
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