ラトビア、イェルガヴァのリエルペ川の中州に建つバルト諸国最大のバロック宮殿。ロシアの宮廷建築家ラストレッリが、クールラント公ビロンの宮殿として設計した。地下に歴代公の霊廟を擁し、現在はラトビア生命科学技術大学が使う。
§1 — 概要概要
イェルガヴァ宮殿(Jelgava Palace、ラトビア語: Jelgavas pils)は、ラトビア南部の都市イェルガヴァを流れるリエルペ川の中州に建つバロック様式の宮殿である。バルト諸国で最大のバロック宮殿とされ、設計はロシアの宮廷建築家として活躍したイタリア出身のバルトロメオ・ラストレッリ(Bartolomeo Rastrelli)。クールラント・ゼムガレ公国の君主の居館として建てられ、近郊のルンダーレ宮殿(同じくラストレッリ作の夏の離宮)と対をなす。歴史的にはドイツ語名にちなみミタウ宮殿(Schloss Mitau)とも呼ばれた。
歴史
建設は1738年に始まった。施主は、ロシア女帝アンナ・イヴァノヴナの寵を得てクールラント公位に就いたエルンスト・ヨハン・フォン・ビロン(Ernst Johann von Biron)である。敷地にはかつてリヴォニア騎士団の中世の城(1265年)と、後のケトラー家の公邸が建っていたが、これらを取り壊して新宮殿が起工された。
しかし1740年、後ろ盾だった女帝アンナの死とともにビロンは失脚し、流刑に処される。工事は屋根も未完のまま中断し、資材や内装の一部はサンクトペテルブルクへ運ばれて、ラストレッリの他の宮殿に転用された。ビロンが赦免されて公位に復帰した1763年に工事は再開され、公が宮殿に移り住んだのは1772年、奇しくもビロンが没した年であった。
宮殿の地下には歴代クールラント公の霊廟が設けられ、ケトラー家・ビロン家の当主ら約30人が、1569年から1791年にかけて葬られた。金属製の石棺21基と木棺9基が現存する。その後も宮殿は火災や戦火に繰り返し見舞われ、1919年のラトビア独立戦争では、撤退する西ロシア義勇軍によって内装が焼かれた。第二次世界大戦末期の1944年にも大きな被害を受けている。なお1798年から1800年には、フランス革命を逃れたのちのルイ18世が一族とともにこの宮殿に身を寄せていたことでも知られる。
建築的特徴
ラストレッリは、中央棟と二つの翼からなるコの字形(U字形)の構成をとった。内部はロココ調の華やかな装飾で整えられ、工事後半にはデンマーク人建築家セヴェリン・イェンセン(Severin Jensen)が加わって、古典主義的な落ち着きが添えられた。1937年には建築家エイジェンス・ラウベ(Eižens Laube)が第四の棟を加え、中庭を囲む形に閉じられている。
もっとも、この宮殿はラストレッリの最高傑作とは見なされていない。エリザヴェータ女帝時代の作品に見られる律動的な変化や彫塑的な豊かさに乏しく、ファサードは平板だと評される。庭園を伴わず、前庭も当初は街路に向かって開かれていた点も、彼の作風としては異例である。
意義・現在
度重なる破壊を経ながらも、宮殿は外観を中心に修復され、いまはラトビア生命科学技術大学(旧ラトビア農業大学)の本館として用いられている。大学が使う一方で、地下の公爵霊廟は博物館として一般に公開され、宮殿の建設史を伝える展示とともにクールラント公国の記憶を今に伝えている。バルト海沿岸へと広がったロシア・バロックの足跡を示す建築として、その歴史的な価値は大きい。