イラン南部ファールス州にある、アケメネス朝ペルシアの儀礼的首都の遺跡。前518年…
イラン南部のパサルガダエに残る、アケメネス朝ペルシアの創建者キュロス2世の墓。六段の階段状基壇の上に切妻屋根の石室を載せただけの簡素な石造建築で、2500年にわたりほぼ原形をとどめる。
§1 — 概要キュロスの墓は、イラン南部ファールス州のパサルガダエに残る、アケメネス朝ペルシアの創建者キュロス2世(大王)の墓所である。パサルガダエは帝国最初の都であり、墓はかつて王の庭園であった一画の南隅に立つ。六段の階段状の基壇の上に、切妻屋根をもつ小さな石室を載せただけの、極度に簡素な構成をとる。総高は11mをわずかに超える。
キュロス2世は前530年に没しており、墓もその頃のものとされる。ただし着工の年を伝える記録はなく、生前に築き始められた可能性も残る。
最も詳しい古代の記述は、アレクサンドロス大王の東征に随行したアリストブロスの失われた記録に基づき、2世紀のアッリアノスが『アレクサンドロス東征記』に残したものである。それによれば墓は王の庭園にあり、周囲にはあらゆる種類の樹木が植えられ、水路が引かれていた。アレクサンドロスは墓が掘り荒らされ副葬品が略奪されているのを見て憤り、原状への復旧と副葬品の修復を命じたうえで、以後の破壊を防ぐため入口を封鎖させたという。アッリアノスはまた、自らをキュロス、カンビュセスの子、ペルシア帝国の創建者にしてアジアの王と名乗り、この記念物を惜しむなと呼びかける碑文を伝えるが、その痕跡は現存しない。
イスラームによるイラン征服の後、墓は「ソロモンの母の墓」として伝えられるようになる。1812年、英国の外交官ジェームズ・ジャスティニアン・モリエが、その形態と佇まいがイランのイスラーム聖廟とはまったく異なり、むしろアッリアノスの記述と一致することに気づき、キュロスの墓であると同定した。1821年にはロバート・ケル・ポーターが同じ結論に達している。修復は、1971年のペルシア帝国建国2500年祭に向けて一度、さらに2002年から2009年にかけてもう一度行われた。
基壇は13.35×12.3mの長方形の平面をもち、六段の石段をなす。最下段は高さ1.65mあるが、うち60cmほどは元来削り出されず地中に隠れていた。石材はシヴァンドの採石場のものとみられる黄白色の石灰岩である。モルタルを用いず、金属のかすがいで石材どうしを繋いでいたが、そのかすがいはほぼすべてが後世に抉り取られ、残された窪みが構造を弱めている。石室の入口は、痩せた者でようやく通れるほど狭い。
形式の由来については、階段状の基壇をメソポタミアないしエラムのジッグラトに、切妻屋根の石室をより古いウラルトゥの墓に求めるのが通説である。とりわけ寸法は、リュディア王クロイソスの父アリュアッテスの墓とほぼ一致するとされるが、この見方を否定する研究者もいる。いずれにせよ、被征服地の形式を組み合わせて自らの記念碑を組み立てるという手つきは、後のペルセポリスに至るアケメネス朝建築の折衷性を、最も早い段階で示すものである。
モルタルを用いない積み方と基壇の構成が地震の揺れを逃がすため、世界最古の免震構造の例に数えられることがある。
キュロスの墓は、パサルガダエの構成資産として2004年に世界遺産に登録されている。碑文は失われ、副葬品は略奪され、被葬者の名すら中世には忘れられていた。それでも六段の基壇と切妻の石室という単純な形だけは残り、アケメネス朝が自らの帝国を石で語り始めた最初の言葉として、いまも読むことができる。