イラン南部のパサルガダエに残る、アケメネス朝ペルシアの創建者キュロス2世の墓。…
イラン南部ファールス州にある、アケメネス朝ペルシアの儀礼的首都の遺跡。前518年ごろダレイオス1世が造営を始め、列柱の謁見殿や壮大な階段浮彫を擁した。前330年アレクサンドロス大王により焼き払われ、廃墟となった。
§1 — 概要ペルセポリス(古代ペルシア語で「ペルシア人の都市」、現地名タフテ・ジャムシード)は、アケメネス朝ペルシア帝国の儀礼的な首都であった遺跡である。イラン南部ファールス州、マルヴダシュト平原の岩盤を削り出した巨大な人工基壇の上に、謁見殿・宮殿・宝物庫などが配された。帝国の日常的な行政の中心ではなく、新年(ノウルーズ)の祝祭などに各地の使節が朝貢のため集う、権威を演出する舞台として設計されたと考えられている。
ペルセポリスの造営は、前518年ごろ、帝国を再編したダレイオス1世によって始められた。まず一辺数百メートルに及ぶ石造の基壇と大階段が築かれ、その上にアパダーナ(大列柱謁見殿)が建てられた。造営はクセルクセス1世、アルタクセルクセス1世ら後継の王へと引き継がれ、「万国の門」や「百柱の間」などが順次加えられた。しかし帝国が完成をみないまま、前330年、東征したアレクサンドロス大王の軍がこの地を占領し、宮殿群は焼失した。放火が意図的な報復であったか、酒宴の際の偶発であったかは古来議論がある。以後ペルセポリスは廃墟として砂に埋もれ、近代の発掘によってその全容が明らかにされた。
ペルセポリスの建築は、帝国が支配した諸地域の様式を統合した折衷性に特徴がある。細く高い石柱を林立させ、木造の梁と天井を架ける構成は、エジプトやイオニアの影響を受けつつ、柱間を大きくとって広い内部空間を生んだ。柱頭には背中合わせの双牡牛(ラマッス)が据えられ、梁を受けた。基壇へ上る大階段や壁面には、各地から貢物を運ぶ使節の行列や、王と廷臣の姿が精緻な浅浮彫で刻まれ、多民族帝国の秩序を視覚的に表現している。入口を守る「万国の門」には、巨大な有翼人面牡牛像が配された。
ペルセポリスは、アケメネス朝の権力と、それが束ねた広大な世界の多様性を今に伝える第一級の遺跡である。焼失によって木造部分は失われたが、石造の柱・門・浮彫が残り、当時の壮大な空間をしのばせる。1979年に世界遺産に登録され、イランを代表する文化遺産として知られる。近隣のナクシェ・ロスタムにある王墓群とあわせ、古代ペルシアの造形を伝える屈指の遺跡群を形成している。