パリのルーヴル西に建っていた、現存しない王宮。1564年にカトリーヌ・ド・メディシスの命でフィリベール・ド・ロルムが起工し、歴代王朝の居所となったが、1871年のパリ・コミューンで焼失した。
§1 — 概要概要
テュイルリー宮殿(Palais des Tuileries)は、かつてパリのセーヌ右岸、ルーヴル宮殿の西に建っていた王宮である。16世紀に王妃カトリーヌ・ド・メディシスの離宮として起工され、のちにルーヴルと一体化して歴代の王・皇帝の居所となった。フランス王政・帝政の権力の中心を担った宮殿だが、1871年のパリ・コミューンの際に焼き払われ、現在は宮殿そのものは失われ、東に広がるテュイルリー庭園にその名をとどめる。
歴史
1564年、アンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディシスは、ルーヴルの外に新たな離宮を構えることを望み、ルネサンス建築の理論家フィリベール・ド・ロルムに設計を委ねた。ド・ロルムの死後はジャン・ビュランが工事を継いだが、当初の壮大な構想は完遂されなかった。17世紀にはルイ・ル・ヴォーらが宮殿を拡張し、ルーヴルへ至る長大なギャラリーで両宮を結ぶ計画が進められた。ルイ14世がヴェルサイユへ移った後も、フランス革命期には国王一家がここに移され、ナポレオン1世やその後の君主たちの宮殿として使われた。1871年、コミューンの戦いのさなかに放火されて全焼し、廃墟は1883年に撤去された。
建築的特徴
ド・ロルムの当初案は、フランス・ルネサンスの古典的な秩序を備えた、列柱とパヴィリオンからなる水平に長い構成であった。中央に大階段とドーム状の頂部を据え、左右に翼を展開する計画は、当時のフランスにおける古典主義建築の到達点を示すものであった。その後の度重なる増改築によって、宮殿は複数の時代の様式が接ぎ木された複合体となり、最終的にはルーヴルと向き合う長大なファサードと、それに連なるグランド・ギャラリーが、パリ中心部に壮大な軸線を形づくった。
意義・現在
テュイルリー宮殿は、フランスの王権・帝権の象徴であり、その消失自体が革命と内戦に彩られた近代フランス史を映す。宮殿跡は現在開けた空間として残り、ルーヴルからカルーゼル凱旋門、テュイルリー庭園、コンコルド広場を経てシャンゼリゼへと延びる「パリの歴史軸」の起点をなす。失われた宮殿の再建構想も繰り返し論じられてきたが、実現には至っていない。庭園は今日もパリ市民と来訪者に開かれた憩いの場である。
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