建築様式史 — CHAPTER 09
再生
Renaissance非西欧の大伝統を一巡し、視点をふたたび西欧へ戻そう。15世紀のイタリアで、人々は中世の神中心の世界観を離れ、古代ギリシア・ローマの文化を「再生」させようとした。比例と幾何学、人間の理性、そして「建築家」という個の自覚——ルネサンスは、建築を匿名の職人仕事から、知性に裏打ちされた芸術へと押し上げる。
古典の復権
ルネサンス(再生)とは、文字どおり古代の「再生」であった。15世紀のフィレンツェを中心に、人文主義者たちは古代ローマの遺跡を実測し、ただ一つ伝わった古代の建築書——ウィトルウィウスの『建築十書』を読み解いて、忘れられていた古典の文法を学び直した。古代ローマの建築書を伝えるウィトルウィウスの写本は、15世紀初めに修道院で再発見され、人文主義者たちの熱狂を呼んだ。ブルネレスキらは廃墟と化したローマを歩いて柱や基壇を実測し、失われた寸法体系を掘り起こしていった。ドーリア・イオニア・コリントのオーダー、半円アーチ、ドーム、そして何より、全体と部分が整数比で結ばれる「比例」の理念が、ふたたび建築の規範となる。中世の大聖堂が天への上昇を求めたのに対し、ルネサンスの建築は、人体になぞらえた調和と、静かな水平の安定を尊んだ。同じころ、ブルネレスキが、一つの消失点に向けて空間を作図する線遠近法を確立する。世界を数学的にとらえるこの方法は、絵画と建築をともに合理の上に据え、ルネサンスの精神を象徴した。
ドームの再挑戦
この時代の工学的偉業が、フィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)の大ドームである。聖堂の身廊は13世紀末にゴシック様式で着工されたが、交差部に開いた直径43メートルもの巨大な穴に、どうドームを架けるかは、一世紀以上も未解決のまま残されていた。足場を支える中心の支柱を立てられないほどの大きさだったからである。1418年に開かれた設計競技で、ブルネレスキはこの難問への解答を示し、建設を委ねられた。この難題を解いたのが、フィリッポ・ブルネレスキであった。彼は、内外二枚の殻からなる二重殻ドームを考案し、煉瓦を魚の骨のように斜めに積む独自の技法で、巨大な足場なしにドームを自立させながら積み上げていった。頂の採光塔(ランタン)まで含むこのドームは、古代以来、最大の組積造となった。1436年に完成したこのドームは、古代の技術をも超える革新であり、ルネサンス建築の幕開けを高らかに告げる記念碑となった。その赤い八角形のドームは、いまもフィレンツェの街並みを統べる象徴であり、のちのサン・ピエトロ大聖堂やアメリカ合衆国議会議事堂のドームへと連なる系譜の起点でもある。
理論と作者
ルネサンスがもたらしたもう一つの変化は、「建築家」という存在の登場である。中世の大聖堂が無数の匿名の職人によって築かれたのに対し、ルネサンスでは、構想する個人=知識人としての建築家が前面に出る。レオン・バッティスタ・アルベルティは、建築を実践するだけでなく、古代にならって理論書『建築論』を著し、比例と美の原理を論じた。彼はサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のファサードで、中世の壁面に古典の秩序を与えてみせた。ドナト・ブラマンテは、古代ローマの荘重さを再現して、ローマに新たな規範を打ち立てる。彼の小さな円堂テンピエットは、古代神殿の理想を凝縮し、のちのサン・ピエトロ大聖堂の構想の出発点となった。そして16世紀、ヴェネト地方のアンドレア・パッラーディオは、古代神殿の柱廊(ポルティコ)を住宅に応用した端正なヴィラを数多く設計した。ヴィチェンツァ近郊のヴィラ・ロトンダは、正方形の平面の四方すべてに同じ神殿風のポルティコを備え、中央に円形の広間とドームを戴く、完璧な左右対称の傑作である。
規範の普及
パッラーディオの真価は、その建物だけでなく、著書『建築四書』(1570年)にあった。自作と古代建築を図版とともに体系化したこの書物は、印刷術に乗ってヨーロッパ中に広まり、誰もが参照できる古典建築の「教科書」となる。神殿風の柱廊を戴く簡素なヴィラの型は、各国の郊外住宅やカントリー・ハウスの手本ともなった。とりわけ18世紀のイギリスでは、パッラーディオの様式(パッラーディオ式)が国民的な建築言語として復興し、やがて大西洋を渡って、独立まもないアメリカの邸宅や公共建築——トマス・ジェファソンの設計した建物などにも、その理想が刻まれた。一人の建築家が定めた規範が、時代と海を越えて生き続けたのである。こうして静的な調和と比例を打ち立てたルネサンスに対し、次の時代は、運動と光、劇的な演出によって観る者の感情を揺さぶる方向へと振れていく。次章では、その劇場としての建築——バロックへと向かう。