サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 Florence Cathedral
フィレンツェの大聖堂。1296年にゴシック様式で着工し、1436年にブルネレスキが架けた巨大な八角形ドームで完成した。仮枠なしで築かれたこのドームは石造として世界最大で、ルネサンス建築の幕開けを告げる記念碑とされる。
§1 — 概要概要
フィレンツェの大聖堂で、正式名をサンタ・マリア・デル・フィオーレ(Santa Maria del Fiore、「花の聖母マリア」)という。市の中心ドゥオーモ広場にそびえ、緑・桃・白の色大理石をまとった巨体と、街を圧する赤いドームによって、フィレンツェそのものの象徴となっている。1296年にゴシック様式で着工された本体と、1436年に完成したルネサンスのドームとが一つに結ばれた建築であり、中世から近世への移り変わりを一身に体現する。市の歴史地区の一部として、ユネスコ世界遺産に登録されている。
歴史
毛織物と金融で富を築いた中世フィレンツェは、ピサやシエナに対抗して、市民すべてを容れるほどの壮大な大聖堂を望んだ。1296年9月8日、古い聖堂サンタ・レパラータの跡地に礎石が据えられ、最初のカポマエストロとして彫刻家・建築家のアルノルフォ・ディ・カンビオ(Arnolfo di Cambio)がラテン十字形のゴシックの構想を立てた。アルノルフォの死後、造営は停滞するが、1334年に画家ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone)が棟梁に就き、隣り合う鐘楼を着工する。鐘楼はジョットの没後、アンドレア・ピサーノ(Andrea Pisano)を経て、フランチェスコ・タレンティ(Francesco Talenti)が1359年に完成させた。タレンティは大聖堂本体の計画も大きく拡張し、交差部の空間を途方もない大きさへと広げている。1412年には聖堂の名がサンタ・マリア・デル・フィオーレと定められた。
こうして身廊は14世紀末までにおおむね整ったが、巨大な交差部を覆うドームだけは、技術上の難題として未完のまま残された。1418年、羊毛組合がドーム建設のコンペを公示し、金細工師あがりの二人——フィリッポ・ブルネレスキ(Filippo Brunelleschi)とロレンツォ・ギベルティ——が競う。やがて主導権を握ったブルネレスキは、1420年から1436年にかけて、足場の仮枠を用いずにドームを築き上げた。大聖堂は1436年3月25日、教皇エウゲニウス4世によって聖別され、献堂の式ではデュファイのモテットが歌われている。頂部のランタンはブルネレスキの没後に仕上げられ、1469年にはヴェロッキオの金銅の球が据えられた。一方、正面のファサードは長く未完のままで、現在の色大理石による新ゴシックの正面は、エミリオ・デ・ファブリスの設計のもと1876年から1887年にかけてようやく完成したものである。
建築的特徴
外壁は、洗礼堂やトスカーナのロマネスク建築に倣った緑・桃・白の色大理石で、幾何学的に飾られる。平面はラテン十字のバシリカで、三廊の身廊が八角形の広大な交差部へと開き、その上に大ドームが架かる。ドームはブルネレスキによる二重殻ドームである。内外二層の殻のあいだに空隙をとり、煉瓦を魚骨状に積み上げる独自の手法によって、外部からの控え壁(フライング・バットレス)に頼ることなく、直径およそ45メートルの八角形を覆い切った。ゴシックの控え壁を退けるこの選択は、すでに1367年の設計案決定に含まれており、しばしば古典的なドームへの回帰として語られる。隣に立つジョットの鐘楼、向かいの洗礼堂とともに、広場の景観を構成する。内部の天井には、ヴァザーリらが描いた巨大な《最後の審判》のフレスコが広がる。
意義・現在
ブルネレスキのドームは、石造ドームとして今なお世界最大であり、その建設はルネサンスの幕開けを告げる事件としてしばしば語られる。ゴシックに始まりルネサンスに至るこの大聖堂は、一つの様式に括れない時代の蝶番のような建築であり、本サイトでもイタリア・ゴシックとルネサンスの双方に位置づけている。フィレンツェ歴史地区の構成資産として1982年に世界遺産へ登録され、今日も現役の司教座聖堂であるとともに、ドームや鐘楼に登る来訪者を世界中から集めている。