EST. 2026 — Editorial Archive of Notable Architecture
バスティーユ牢獄
© 作者不詳(フランス国立図書館 Gallica) / Public domain
FIG. 01 — Q1865480

バスティーユ牢獄 Bastille

Bastille

パリ東縁を守るため1370年に着工された要塞。8基の塔と城壁を同じ高さで揃える革新的な設計で各地に模倣された。17世紀以降は勅命逮捕状による牢獄となり、1789年7月14日の襲撃を経て解体された。

FIG. 02 — Location48.8533° N 2.3692° E
フランス イル・ド・フランス地域圏 パリ
§1 — 概要

概要

バスティーユ(Bastille)は、パリの東縁を守るために14世紀に築かれた要塞である。サンタントワーヌ地区にあることからバスティーユ・サンタントワーヌとも呼ばれた。17世紀以降は国王の裁量で人を収監する牢獄として機能し、1789年7月14日に民衆に襲撃されたことで、旧体制の圧政の象徴として世界史に名を残した。

建築としては、同時代の城郭の常識を捨てた設計が広く模倣された点で重要である。1806年までに完全に解体され、跡地は現在バスティーユ広場となっている。

歴史

百年戦争のさなか、パリの防御は西のルーヴル城に偏り、東側は手薄であった。ポワティエの戦いで国王ジャン2世が捕虜となると、危機感を強めたパリ商人頭エティエンヌ・マルセルは1357年に市壁を拡張し、東の玄関口サンタントワーヌ門を二基の塔と幅24メートルの堀で固める。こうした要塞化された門を「バスティーユ」と呼んだ。

1369年、シャルル5世はこの防御をなお不十分と見て、パリ奉行ユーグ・オーブリオに、同じ場所へはるかに大規模な要塞を築くよう命じた。オーブリオは1370年4月22日に礎石を据え、既存の二塔の背後にもう二基、次いで北に二基、南に二基を加えていく。工事はシャルル5世が没した1380年時点でも未完で、子のシャルル6世の代、1383年に完成した。皮肉なことに、この要塞に最初に収監された人物はオーブリオ自身であった。

1417年、バスティーユは正式に国事犯の監獄と定められる。ルイ13世の宰相リシュリューがこれを本格的に運用し、1659年以降は主として国家の監獄となった。収監の根拠は「勅命逮捕状」であり、裁判を経ずに王の一存で人を拘束できる点が憎悪を集めた。1789年までに5,279人が門を通っている。

1789年7月14日、民衆が襲撃したとき、要塞にいた囚人はわずか7人であった。群衆の主目的は備蓄された火薬であり、司令官ベルナール=ルネ・ド・ローネーは殺害された。解体は市庁舎委員会の決定により直ちに始まり、1806年に完了する。解体中、石材で作った要塞のミニチュアが土産物として売られた。

建築的特徴

完成時のバスティーユは、8基の塔とそれをつなぐ城壁からなる、幅68メートル・奥行37メートルのほぼ矩形の塊であった。壁と塔の高さはいずれも約24メートル、基部の厚さは約3メートル。セーヌ川から水を引いた堀が周囲を巡り、出入りは四組の跳ね橋に限られ、サンタントワーヌ通りは要塞の内部を貫通していた。

設計の要点は、塔と城壁を同じ高さで揃えたことにある。13世紀の城郭は方形の壁に塔を添えるのが常であり、同時代のヴァンセンヌ城は低い壁の上に高い塔を立て、さらに高い天守で全体を睥睨させた。バスティーユはその両方を捨てた。塔と壁の天端を一続きの胸壁付き歩廊としたことで、守備兵は要塞のどこへでも速やかに移動でき、広くなった歩廊には大砲を据えることができた。火砲の時代を先取りしたこの構成は、フランスのピエールフォンやタラスコン、遠くイングランドのナニー城にまで模倣されている。1550年代には皇帝軍の脅威に備え、東側に稜堡が増築された。

牢獄としての実態は、伝説とはかなり異なる。独房は一辺5メートルほど、天井高8メートルで、高い位置の鉄格子越しに十分な採光があった。囚人は自前の家具を持ち込み、料理人を雇うことすら許されている。図書室も遊技室もあった。ルイ16世即位から襲撃までの15年間の収容者は288人にすぎず、うち12人は自ら望んで入所している。

意義・現在

建築としてのバスティーユは、火砲がまだ主役でない時代に、火砲の時代の城郭を先取りした点に価値がある。だがその軍事的価値は、パリが城壁の外へ膨張し、大砲が主流となった16世紀以降に失われた。侵入しにくく出入口が限られるという性質だけが残り、それが監獄への転用を招く。要塞の設計思想が、そのまま牢獄の設計思想として二百年生き延びたことになる。

地上に遺構はほとんどない。バスティーユ広場の中央に立つのは1830年の七月革命の記念柱であり、要塞の記憶を留めるものではない。壁の一部はメトロ5号線バスティーユ駅のホームで見ることができ、円形の基礎の一部はセーヌ川沿いのスクワール・アンリ=ガリに移設されて保存されている。1989年、広場に面してオペラ・バスティーユが開場した。専制の象徴は、二百年後に劇場に置き換えられたことになる。

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