パリ近郊サン=クルーに建っていた王宮。16世紀に起源をもち、17世紀にルイ14世の弟オルレアン公のもとで壮麗な宮殿へと改築された。マリー・アントワネットやナポレオンも用いたが、1870年の普仏戦争で焼失し、1891年に解体された。
§1 — 概要概要
サン=クルー城(Château de Saint-Cloud)は、パリの西約5キロメートル、セーヌ川を見下ろす高台のサン=クルーに建っていたフランスの王宮である。16世紀にその起源をもち、17世紀にルイ14世の弟オルレアン公フィリップのもとで壮麗な古典主義の宮殿へと改築された。歴代の王や皇帝に用いられたが、1870年の普仏戦争で焼失し、現存しない。アンドレ・ル・ノートルが設計した広大な庭園は、今も国営公園として残る。
歴史
城の核となったのは、16世紀にフィレンツェ出身のゴンディ家が、もとの邸館を拡張した館であった。1570年代、カトリーヌ・ド・メディシスがジェローム・ド・ゴンディにこの地を与えたことに始まる。1658年、ルイ14世が弟フィリップ(ムッシュー)のためにこれを買い上げ、建築家アントワーヌ・ルポートルが大改築を担って、邸宅はU字形の宮殿へと生まれ変わった。ルポートルの死後はジュール・アルドゥアン=マンサールが引き継ぎ、南翼の正面と壮麗な大階段を手がけた。1785年にはルイ16世が王妃マリー・アントワネットのために購入し、リシャール・ミックが改装を加えた。フランス革命後はナポレオンが用い、1799年には城のオランジュリーがブリュメール18日のクーデターの舞台となり、1804年には帝政の宣言もここで行われた。19世紀を通じて歴代の元首の公邸として使われたが、1870年10月13日、普仏戦争のさなかに砲撃を受けて炎上し、焼け落ちた。残された外壁は1891年に解体された。
建築的特徴
東に向かって開くU字形(コの字形)の構成をとり、彫刻を施した石造りの正面に、背の高い窓が並んでいた。内部でもっとも名高いのは、ピエール・ミニャールが天井を描いた大広間「アポロンの間」であり、その壮麗さは、ルイ14世にヴェルサイユ宮殿の鏡の間を構想させたとも伝えられる。城は斜面の地形を生かして築かれ、ル・ノートルによる庭園には、段状に水を落とす大滝(グランド・カスケード)や数々の噴水が配された。傾斜による高い水圧を利用した水景は、ヴェルサイユをしのぐ見どころであった。
意義・現在
サン=クルー城は、「小ヴェルサイユ」とも呼ばれ、三世紀にわたってフランスの王侯・皇帝の歴史を刻んだ宮殿であった。焼失後、外壁は修復可能な状態で残っていたが、第三共和政は財政や治安に加え、王政・帝政の記憶を消し去る意図もあって、1891年に解体を決めた。現在、城そのものは失われ、ル・ノートルの庭園を中心とする国営サン=クルー公園と、わずかな付属建築のみが残る。失われた宮殿の再建を求める運動も起こっている。
関連する建築
Related※ 現存しない城を描いた歴史的絵画。エティエンヌ・アルグラン筆、ヴェルサイユ宮殿蔵。