モスクワ、ノヴォデヴィチ女子修道院の南壁の外に広がる墓地。1898年にロディオノフとマシュコフの設計で区画と煉瓦の外周壁が整えられ、1904年に開設された。チェーホフやショスタコーヴィチ、フルシチョフらが眠り、ソ連期にはクレムリンの壁に次ぐ格式の墓所とされた。
§1 — 概要概要
ノヴォデヴィチ墓地(Новодевичье кладбище / Novodevichy Cemetery)は、モスクワ南西部のハモーヴニキ地区、ノヴォデヴィチ女子修道院の南壁に接して広がる墓地である。面積は7.5ヘクタールを超え、埋葬者は2万6千人ほどにのぼる。作家、音楽家、俳優、学者、軍人、そしてソ連の政治指導者の墓が集まり、ソ連時代にはクレムリンの壁の墓所に次ぐ格式の埋葬地とされた。
建築として見るべきものは二つある。一つは、20世紀初頭に整えられた区画と外周壁という墓地そのものの骨格である。もう一つは、100年あまりのあいだに据えられてきた墓碑の群れで、ネオ・ロシア様式の墓から社会主義リアリズムの胸像、ソ連後期の抽象彫刻までが同じ並木道に並ぶ。
歴史
墓地の前身は修道院の境内墓地である。修道院は1524年、スモレンスク奪回を記念してモスクワ大公ヴァシーリー3世が創建した。16世紀から修道女や皇族・貴族の女性が聖堂の地下や境内に葬られ、19世紀には商人や大学教授の墓も増えて、境内は手狭になっていった。
1898年、修道院南側の旧菜園およそ2ヘクタールを墓地に加えることが決まった。区画と建築の設計は建築家セルゲイ・ロディオノフとイヴァン・マシュコフによる。南壁の外の斜面を埋め立てて排水を整え、修道院の城壁に接続する煉瓦の壁と塔で敷地を囲み、若木を植えて縦横の園路を区切った。この部分は1904年に開設され、墓地の公式の起点もこの年に置かれている。現在の第1〜4区画、いわゆる旧墓地である。
革命後、修道院は1922年に閉鎖されて博物館となり、境内墓地は撤去された。約3千基の墓のうち新しい墓地へ移されたのは16基にすぎず、1934年に方針が改められてからも、復元できた墓は90基ほどにとどまった。同じ1930年代、モスクワ各地の古い墓地が相次いで取り壊されると、ゴーゴリやアクサーコフ、画家レヴィタン、トレチャコフ兄弟らの遺骨がこの墓地へ改葬された。こうしてノヴォデヴィチは国家的な名士の墓所という性格を強めていく。
1949年には南へ拡張して面積がほぼ倍になり、1950〜56年に外周壁と門、管理棟が整えられた(新墓地、第5〜8区画)。1970年代末には修道院の西側、埋め立てた小池と石工場の跡地にも区画が設けられた(最新墓地、第9〜11区画)。
ソ連崩壊後も、2007年に初代大統領エリツィンとチェロ奏者ロストロポーヴィチが相次いで葬られた。ただし空き区画はほとんど残っておらず、2013年にはモスクワ郊外ムィティシに国家的人物のための連邦軍事記念墓地が開かれている。
建築的特徴
墓地は修道院の南に接し、中央の並木道を起点に区画が番号づけられている。旧墓地は樹木が育って木陰が深く、墓碑の間を縫う細い園路は公園のような趣をもつ。外周の赤い煉瓦壁は修道院の城壁と連続し、墓地の内側から見上げると、壁越しに修道院の鐘楼や聖堂の円屋根がのぞく。新墓地の壁には火葬骨を納めるコロンバリウムが組み込まれ、2018年の時点で約7千の骨壺が収められていた。
墓碑の造形は時代の趣味をよく映す。旧墓地の一角には、チェーホフやスタニスラフスキーらモスクワ芸術座ゆかりの人々の墓がまとまり、桜が咲くことから戯曲にちなんで「桜の園」と呼ばれる。チェーホフの墓碑は、レオニード・ブライロフスキーがフョードル・シェフテリとともに手がけたもので(1907〜08年)、小屋根をいただくネオ・ロシア様式の白い墓碑である。ゴーゴリの墓は改葬の際に十字架とゴルゴタ形の台石ごと移されたが、1952年に彫刻家ニコライ・トムスキーの胸像へ置き換えられ、生誕200年の2009年にゴルゴタ形の墓に戻された。
フルシチョフの墓碑(1974年制作)は、彫刻家エルンスト・ネイズヴェスヌイの作である。白と黒の石塊を互い違いに組み合わせた構成で、1962年の展覧会でフルシチョフ本人に作品を罵倒された彫刻家が、遺族の依頼で手がけた。エリツィンの墓碑(2008年)はゲオルギー・フラングリャンの作で、白大理石、赤みを帯びた花崗岩、青い陶片のモザイクで、半ば降ろされたロシア国旗をかたどっている。
意義・現在
モスクワの修道院墓地の多くが20世紀に失われたなかで、ノヴォデヴィチは帝政期からソ連期、現代までの墓碑が連続して残る数少ない場所である。誰をここに葬るかが国家の評価と結びついてきたため、墓地の配置そのものが近現代ロシアの人物史を映している。
修道院は2004年に「ノヴォデヴィチ修道院の建造物群」として世界遺産に登録されたが、構成資産は修道院の壁の内側に限られ、墓地は含まれない。国内では1995年に修道院とともに連邦的意義をもつ文化財に指定された。墓地は現在もモスクワ市の葬儀機関が管理し、近親者の合葬や納骨が続けられている。