シルヴァンシャー宮殿 Palace of the Shirvanshahs
アゼルバイジャンの首都バクー、旧市街の丘上に建つシルヴァンシャー朝の宮殿複合体。15世紀を中心に、宮殿本館・ディヴァンハネ・王族の霊廟・宮廷モスク・浴場などが段差のある敷地に配され、シルヴァン=アブシェロン建築学派の石造技術を伝える。
§1 — 概要概要
シルヴァンシャー宮殿(Şirvanşahlar sarayı)は、バクー旧市街(イチェリ・シェヘル)の丘の頂に建つ、シルヴァンシャー朝の宮殿複合体である。二階建ての宮殿本館を中心に、ディヴァンハネと呼ばれる中庭建築、王族の霊廟、宮廷モスク、宮廷学者セイイド・ヤフヤー・バクヴィーの廟、浴場、貯水槽などが上下二段の中庭に集まる。2000年、城壁に囲まれた旧市街および乙女の塔とともに、アゼルバイジャン初の世界遺産に登録された。
歴史
シルヴァンシャー朝はカスピ海西岸のシルヴァン地方を長く治めた王朝で、15世紀に本拠をシャマフからバクーへ移した。宮殿の造営はこれと結びついており、シャイフ・イブラーヒーム1世(在位1382〜1417年)の代に始まったとする説がある。最も古い部分は本館中央の八角形の広間で、14世紀末頃とみられている。本館自体に銘文は残らないが、王族の霊廟に1435/36年、宮廷モスクのミナレットに1441/42年の年紀があり、いずれもハリールッラー1世の名を記す。石材や加工・積み方が共通することから、本館の主要部もほぼ同じ時期の造営と考えられている。
1501年にサファヴィー朝のイスマーイール1世がバクーを攻略すると、宮殿は王家の居所としての役割を終えた。1578年からのオスマン帝国支配期には、東側の門(ムラードの門)が1585/86年に加えられ、これが複合体を形づくった最後の建築となった。17世紀以降は荒廃が進み、1723年にはピョートル1世の軍によるバクー砲撃で南東面が損傷した。19世紀半ばにロシアの軍当局が倉庫に転用した際には、間仕切り壁や二階の天井ヴォールトが取り払われるなど大きく改変されている。
20世紀に入ると調査と修復が始まり、1932〜1934年にはボリス・ザスイプキンの計画による修復が行われた。1964年に国立の歴史建築博物館=保護区となり、1992年からはニヤズィ・ルザエフの計画で修復が進められて2006年に完了した。世界遺産は2000年の地震被害や旧市街での無秩序な建設が問題視され、2003年から2009年まで危機遺産リストに記載された。
建築的特徴
宮殿本館は当初、一階に27室、二階に25室の計52室をもち、三つの狭い螺旋階段でつながれていた。西面の高い門口から階段を上ると、ドームを架けた二階の八角形の広間に直接入る構成で、ここが謁見の場であったと推定される。外壁は装飾を抑えた平滑な石灰岩の面で、色や幅の異なる石の層と、小窓にはめた透かし彫りの石格子が陰影を与えている。
本館北側のディヴァンハネは、三方を尖頭アーチのアーケードに囲まれた中庭の中央に八角形の亭を置く。その西面の門口は、ムカルナスで支えた半ドームとアラベスクの浮彫で飾られる。装飾に未完の部分が残り、15世紀末の造営とみられる。用途は謁見・評議の場とも廟ともいわれ、地下の墓室や入口上のクルアーン銘文は後者の説の根拠とされる。下段の中庭に建つ王族の霊廟は、ハリールッラー1世が母と息子のために建てたもので、十字形平面の広間にペンデンティヴを介してドームが架かる。ドームの外面はかつてトルコ石色の釉薬で覆われていた。門口の左右の円形の銘には、正像と鏡像で建築家(メマール)ムハンマド・アリーの名が刻まれている。隣接する宮廷モスクは長方形の礼拝室の南端にミフラーブを設け、北東隅にムカルナスの軒で露台を支えるミナレットを立てる。地中に半ば埋めて造られたハンマームは、ドームだけを地上に見せ、壁と床下の煙道で各室を暖めた。
意義・現在
建てられた時期は異なっても、立方体やドーム、門口といった基本形の比例と石の扱いが共有され、複合体は一つのまとまりとして読める。地元の石灰岩を精密に切り積むシルヴァン=アブシェロン建築学派の到達点を示す作例であり、乙女の塔とともにバクー旧市街の中核をなす。現在は博物館=保護区として公開され、アゼルバイジャンの紙幣の図柄にも採られてきた。