スイス・グラウビュンデン州の山村ヴァルスに建つ温泉浴場。ピーター・ズントーが現地産の片麻岩を積み上げて山腹に埋め込んだ、石と水と光だけで構成された1996年開業の建築である。
§1 — 概要概要
スイス東部グラウビュンデン州の奥まった谷、標高1250メートルほどのヴァルス村に建つ温泉浴場である。設計はピーター・ズントー。1993年に着工し、1996年12月に開業した。州で唯一自噴する温泉の真上に建てられ、現地で切り出した片麻岩の細長い板を積み上げた壁が、斜面に半ば埋め込まれている。装飾も遊具もなく、石・水・光だけで組み立てられた空間は、完成直後から現代建築の到達点として国際的に語られた。開業からわずか2年後の1998年、州はこの建物を文化財として保護下に置いている。
歴史
ヴァルスの鉱泉は古くから飲用・浴用に用いられ、1893年から1958年にかけては湯治宿が営まれていた。1960年代に入ると、ドイツの開発業者が1000床規模のホテル群をこの谷に建てるが、事業は破綻する。1983年、村がこれを買い取り、五棟のホテルの中央、源泉の真上に新しい浴場を建てることを決めた。設計者に選ばれたのが、同じ州の村ハルデンシュタインで小さな事務所を営んでいたズントーである。工事は1993年に始まり、1996年12月に開業した。
2012年、村は施設を投資家レモ・シュトッフェルに売却し、名称は「7132 Therme」に改められた。以後は隣接するホテルの宿泊者を優先する高級リゾートとして運営されている。2015年には隣地に超高層ホテルを建てる計画が持ち上がって建築界で論争となり、2017年にはズントー自身が、村の共同の施設として構想した性格が失われつつあると述べている。建物そのものは州の文化財保護のもとで維持されている。
建築的特徴
ズントーがこの設計の出発点に置いたのは「石切場」という像であった。山を掘り、そこに残った石で組み直す——建物は既存のホテルより先に存在していたかのように見えることを求められている。斜面に食い込んだ屋根は草に覆われ、上から見ると発掘現場の遺構のように、下に隠れた浴室の輪郭だけが浮かび上がる。
構成は明快である。高さ5メートルほどの箱状の単位が15個、平面の上に配置される。それぞれの箱の内部はくり抜かれ、身を沈めるための小さな室になっている。箱の上には片持ちのコンクリート屋根版が載るが、屋根版どうしは接合されない。8センチの隙間を残し、そこをガラスで塞いである。この隙間のおかげで、重いはずのコンクリート屋根が細い光の線に縁取られて浮いて見える。訪問者は箱と箱のあいだの狭い通路と、それが開けた大きな浴槽のあいだを行き来することになり、圧縮と解放が交互に訪れる。
壁は、現地で切り出した片麻岩——ヴァルサー・クオーツァイトの名で流通する石——の板を約6万枚積んだものである。切石積みのように見えるが目地は不規則で、しかし無作為ではない。板の高さは3種類あり、3枚の合計が常に15センチになるように定められているため、施工の手順は単純なまま、表情だけが変化する。屋内の光は絞られ、湯の温度・水面の反射・石の冷たさといった身体に届く情報が前面に出るよう仕組まれている。
意義・現在
ヴァルスの浴場は、装飾を削ぎ落とした建築が抽象的で冷たいものになるとは限らないことを示した。ズントーが後に「雰囲気」という語で説明した設計態度——温度、音、匂い、材料の手触りといった、図面に描けない要素から空間を組み立てる方法——が最もはっきり現れているのがこの建物である。1990年代以降、素材と知覚を主題とする建築が国際的に広がる過程で、繰り返し参照点となってきた。
同時に、この建物は公共施設の行方をめぐる事例でもある。人口1000人に満たない村が自らの資源として建てた浴場は、20年を経て高級リゾートの一部となった。設計者自身が異議を唱えるという後日談は、建築の価値と所有・運営のあり方が別の問題であることを示している。現在も営業しており、日帰り利用には制限がある。