ロシアの新古典主義建築
ロシアの新古典主義建築は、18世紀後半のエカチェリーナ2世の治世に始まり、19世紀前半まで続いた古典主義の潮流を指す。先行するバロックやロココの華麗な装飾に代えて、古代ギリシア・ローマの秩序、明快な比例、左右対称の構成を理想とし、サンクトペテルブルクを中心に壮大な都市景観を生み出した。柱とペディメントによる神殿風のポルティコ、簡潔で平滑な壁面、堂々たる量塊が基本の語彙であり、帝都の威信を可視化する様式として国家的に推進された。黄色や淡い色に塗られた漆喰壁に白い柱を組み合わせる配色も広く好まれ、広大な広場や直線的な街路と一体となって、計画的で開かれた都市空間を志向した。19世紀初頭には、ナポレオン期フランスに範をとった荘重な「帝政様式(エンパイア)」へと展開し、記念碑性と都市的なスケールをいっそう強めた。西欧の新古典主義が個々の建築の純粋性を追求したのに対し、ロシアでは帝国の権威を都市の規模で演出する点に独自性があった。カルロ・ロッシ、アンドレヤン・ザハロフ、アンドレイ・ヴォロニーヒンらがこの様式を担い、宮殿広場の参謀本部、海軍省、カザン大聖堂など、首都の中核をなす建造物を残している。様式は首都の官庁・聖堂・邸宅にとどまらず、帝国各地の都市計画にも広く適用され、キーウ大学本館(赤い校舎)のような地方の主要建築にもその規範が及んだ。やがてロマン主義的な歴史主義や折衷主義に主役を譲るが、近代ロシアの都市の骨格をかたちづくった古典主義として、建築史上大きな意義をもつ。