敦煌郊外、鳴沙山東麓の崖に穿たれた仏教石窟群。366年の開鑿に始まり元代まで千年…
インド西部、ワーグラー川の渓谷の岩壁を穿った30ほどの仏教石窟。前2世紀と5世紀の二期にわたり造営され、僧院窟と塔院窟からなる。古代インド絵画の最大の遺存であり、1983年に世界遺産に登録された。
§1 — 概要アジャンター石窟群は、インド・マハーラーシュトラ州北部、ワーグラー川がつくるU字形の渓谷の北壁に穿たれた仏教石窟寺院である。前2世紀頃から5世紀末にかけて断続的に営まれた、30ほどの窟からなる。
構成は、僧が雨期を過ごすヴィハーラ(僧院窟)と、ストゥーパを祀るチャイティヤ(塔院窟)の二種である。文献は、ここが僧の雨安居の場であるとともに、隊商や巡礼の宿でもあったことを伝える。壁画の質と量において比類なく、とくに第1・2・16・17窟の壁画は、古代インドの絵画としては最大のまとまった遺存である。1983年、ユネスコ世界遺産に登録された。
造営は明確に二期に分かれる。第一期は前2世紀から後1世紀頃、サータヴァーハナ朝の庇護下と考えられ、第9・10・12・13・15A窟がこれにあたる。第9・10窟が塔院窟、残りが僧院窟である。この時期の窟には仏の姿を彫った像がなく、礼拝の対象はあくまでストゥーパであった。
その後、数世紀にわたって造営は途絶える。ただし放棄されたわけではなく、400年頃にこの地を訪れた中国僧法顕の記録が、巡礼が続いていたことを示す。
第二期は5世紀に始まる。かつては4世紀から7世紀にわたる長期の造営と考えられていたが、ウォルター・スピンクの研究は、大半の工事がヴァーカータカ朝ハリシェーナ王の治世下、460年から480年というごく短い期間に集中したと論じた。この説には批判もあるが、インド美術の概説書では広く受け入れられている。一方でインド考古局は、5〜6世紀に始まり以後二世紀続いたとする従来の年代観を今も掲げており、決着はついていない。いずれにせよ、480年頃にハリシェーナが没すると有力な施主を失い、工事は未完のまま放棄された。
以後、石窟はジャングルに埋もれた。7世紀の玄奘や17世紀の『アイーニ・アクバリー』に言及があり、土地の人々には知られ続けていたが、外部世界にとっては失われた場所であった。1819年4月28日、第28騎兵隊のジョン・スミス大尉が虎狩りの最中、地元の羊飼いの少年に導かれて第10窟の入口に立つ。彼は菩薩の壁画の上に自分の名と日付を刻みつけた。当時1.5メートルほどの瓦礫の山の上に立っていたため、その落書きは今日、大人の目線よりはるか上に残っている。
すべては掘り出された建築である。石を積むのではなく、上から下へ岩を除去して空間を彫り出す。したがって足場も仮枠も要らないが、やり直しもきかない。
塔院窟は定型をもつ。奥を半円形に閉じた細長い平面の突き当たりにストゥーパを据え、列柱で側廊を分けて、塚を巡る道を確保する。天井は筒形に彫られ、正面には馬蹄形の大窓が開いて、光がストゥーパの正面に落ちる。注目すべきは、石が徹底して木を模倣していることである。天井には木造の垂木が、あたかも構造材であるかのように彫り出されている。掘り抜かれた岩に垂木は不要であり、これは失われた古代インドの木造建築の写しにほかならない。
僧院窟は方形の広間の三方に小さな僧房を穿つ。第一期には純粋な居住施設であったものが、第二期には奥壁に仏龕を設けて礼拝機能を兼ねるようになり、規模も装飾も飛躍的に増した。仏像が現れ、列柱には彫刻が施され、壁と天井は全面に彩色される。前2世紀の禁欲と5世紀の絢爛の落差は、大乗仏教の展開そのものを断面として示している。
第一の価値は絵画にある。線の弾力、身振りと姿勢による感情の表現、量感を伴う肉体の描写は、同時代の世界に比較対象を見出しにくい。題材は釈迦の前世を語るジャータカやアーリヤシューラの『ジャータカマーラー』で、宗教画でありながら宮廷生活の細部を惜しみなく描き込む。文献はインド絵画の豊かさを繰り返し伝えるが、実物がまとまって残るのはほぼここだけである。アジャンター風の様式は、エローラをはじめアウランガーバード、エレファンタ、カルナータカの石窟群へ広がった。
保存の歴史は平坦ではない。植民地期、この地は英領インドではなくハイデラバード藩王国の領内にあった。1920年代初頭、最後のニザームであるミール・オスマン・アリー・ハーンは修復に人を充て、遺跡を博物館とし、有料の観光道路を敷いている。リチャード・コーエンによれば、これらの初期の措置はむしろ管理の失敗を招き、劣化を早めた。壁画そのものの修復には、イタリアからロレンツォ・チェッコーニとオルシーニ伯が招かれている。独立後はマハーラーシュトラ州が受け入れ施設と管理を整備した。現在はエローラと並ぶ州随一の観光地であり、休日には混雑する。