サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂 Basilica of Saint Paul outside the Walls
ローマ城壁外、使徒パウロの墓所に建つ教皇バシリカ。386年にテオドシウス1世が起工した五廊式の大聖堂は1823年の火災で焼失し、ポレッティらが19世紀に旧規模で再建した。
§1 — 概要概要
サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂は、ローマ四大バシリカの一つで、アウレリアヌス城壁の外、使徒パウロの墓所とされる場所に建つ。イタリア領内にありながら聖座の所有で、治外法権をもつ。隣接するベネディクト会修道院の修道院聖堂でもある。全長131.66メートル、幅65メートル、高さ29.7メートルで、サン・ピエトロ大聖堂に次いでローマで二番目に大きい。1823年の火災で古代の建物をほぼ失い、現在の姿は19世紀の再建による。「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂」としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。
歴史
パウロの処刑後、信徒が墓所に記念の小堂を建てたと伝えられる。コンスタンティヌス1世がその上に最初の聖堂を築き、324年に教皇シルウェステル1世が献堂した。386年、皇帝テオドシウス1世ははるかに大きな聖堂の建設に着手する。工事を担ったのはキリアデスという技術者で、身廊と四つの側廊、翼廊をもつ五廊式の大聖堂が生まれた。402年頃に教皇インノケンティウス1世が献堂し、モザイクを含む装飾はレオ1世の治世(440〜461)に完成する。5世紀の時点で、旧サン・ピエトロ大聖堂よりも大きかった。
801年の地震で屋根が落ち、9世紀にはサラセン人の襲撃を受けたため、教皇ヨハネス8世は聖堂と修道院を城壁で囲んで「ジョヴァンニポリ」と呼ばれる町を形づくった。1070年、コンスタンティノープルに住むアマルフィの商人パンタレオーネが青銅扉を寄進し、1205年から1241年にかけてヴァッサレット一族がキオストロを築く。1285年にはアルノルフォ・ディ・カンビオが主祭壇のチボリウムを制作した。
1823年7月15日、屋根の樋を修理していた職人の火の不始末から出火し、1400年以上原形を保ってきた聖堂はほぼ焼け落ちた。教皇レオ12世は回勅を発して再建の寄進を募り、4世紀の姿のままに建て直すよう命じる。工事はジュゼッペ・ヴァラディエルの当初案をもとにパスクアーレ・ベッリの指揮で1826年に始まり、ベッリの死後1833年からルイージ・ポレッティが引き継いで、現在の姿の大半を決定づけた。1840年10月に翼廊と主祭壇が、1854年9月に聖堂全体が献堂された。工事はなお続き、ファサードのモザイクは1874年までに、テヴェレ川に面する大きな柱廊中庭は1928年にようやく完成している。
建築的特徴
再建は古代の五廊式平面を踏襲しつつ、細部を19世紀の新古典主義の語法で作り直した。80本の円柱が並ぶ身廊は、白と金を基調とする均質な光に満たされ、古代の聖堂がもっていた雑多な転用材の質感とは対照的な、整然とした空間となっている。窓に嵌るのはステンドグラスではなく、光を透す雪花石膏である。
火災を生き延びた要素は限られる。アプスの内側と凱旋アーチに残る5世紀のモザイクは、ガッラ・プラキディアの寄進によりレオ1世の時代に制作されたもので、ヨハネの黙示録を主題とし、中央のキリスト像を24人の長老が囲む。1070年の青銅扉は、キリストと使徒たちの事績を56の方形の板に刻む。身廊の壁上部には歴代教皇の肖像がめぐるが、これは焼失した中世の壁画帯を19世紀にモザイクで復元したものである。
翼廊の南に開くキオストロは、中世イタリアでも屈指の作例とされる。二本一組の小円柱は捩れたものや束ねたものなど形が変化に富み、金と色ガラスの象嵌が柱身と楣を飾る。
意義・現在
この聖堂は、失われた初期キリスト教建築の規模と構成を体感できる、ほとんど唯一の場所である。同時に、19世紀のヨーロッパが古代をどう理解し、どこまで復元しうると考えたかを示す記念碑でもある。「元のとおりに」という教皇の指示は早くから守られなくなり、結果として生まれたのは複製ではなく、19世紀の解釈を通した古代である。
主祭壇の下には「使徒にして殉教者パウロに」とラテン語で刻まれた墓石があり、2002年から2006年の発掘で、その下に白大理石の石棺の存在が確認された。2009年には、石棺内の骨片が1世紀から2世紀のものであるとする放射性炭素年代測定の結果が公表されている。聖年に開かれる聖なる扉をもつ四つの聖堂の一つであり、2025年10月にはイングランド国教会の首長であるチャールズ3世が聖なる扉から入堂して、エキュメニカルな祈りに加わった。