死海西岸、ユダヤ砂漠の卓状台地に築かれたヘロデ大王の要塞宮殿。前37年ごろから…
ヨルダン川西岸ヘブロンの旧市街にある聖所。アブラハムら族長夫妻の墓所と伝わる洞穴の上に、ヘロデ時代の巨大な石造囲壁が立つ。ユダヤ教・キリスト教・イスラームの聖地で、ムスリムはイブラーヒーム・モスクと呼ぶ。
§1 — 概要マクペラの洞穴(Cave of Machpelah / Cave of the Patriarchs)は、ヨルダン川西岸南部の都市ヘブロンの旧市街にある聖所である。『創世記』によれば、アブラハムが妻サラを葬るため、ヘト人エフロンから畑ごと買い取った洞穴で、のちにアブラハム自身、イサクとリベカ、ヤコブとレアもここに葬られたという。三つの一神教がともに崇敬する「族長の墓」であり、アラビア語ではイブラーヒーム・モスク(アル=ハラム・アル=イブラーヒーミー)と呼ばれる。洞穴の上に築かれた長方形の石造囲壁は、ヘロデ時代の建造物のなかで、ほぼ完全な姿のまま立ち続けるほとんど唯一の例とされる。
囲壁は、ヘロデ大王の治世(前1世紀末)に築かれたとするのが通説である。ただし造営年代には議論があり、それ以前にさかのぼるとする説や、紀元1世紀とする見方もある。当初は屋根をもたない聖域の囲いで、内部は空に開かれていた。
ビザンティン時代には囲壁の南東部にバシリカが設けられ、キリスト教の巡礼地となった。7世紀にアラブ・ムスリムの支配下に入ると建物はモスクとして整えられ、1100年に十字軍が町を押さえると再び教会となって、切妻屋根や高窓、ヴォールトが加えられた。1188年にサラーフッディーン(サラディン)がこの地を奪回してモスクに戻し、囲壁の四隅にミナレットを建てたほか、アスカロン近郊の聖廟にあった木彫のミンバルを移した。四基のミナレットのうち二基が現存する。マムルーク朝期には礼拝空間の拡張や六基のセノタフの整備が進む一方、ユダヤ教徒は南東の外階段の七段目より先へ進むことを禁じられた。
1967年の第三次中東戦争でヨルダン川西岸がイスラエルに占領されると、建物の一部がシナゴーグとして使われるようになった。1994年には礼拝中のムスリム29人がイスラエル人入植者に射殺される事件が起き、以後、建物はイスラームの礼拝区画とユダヤ教の礼拝区画とに分けて運用されている。
囲壁はおよそ59×34メートルの長方形で、北西から南東へ長く延びる。高さ約12メートルの壁には長さ7メートルを超える石材も用いられ、石の縁に浅い帯状の彫り込みをめぐらせた切石は、エルサレムの神殿の丘の擁壁と共通するヘロデ期特有の仕上げである。壁の上半部にはピラスターが一定の間隔で並び、長辺に16本、短辺に8本を数える。巨大な量塊に浅い凹凸のリズムを刻むこの意匠は、神域を画すテメノスの壁の典型を示している。
内部は仕切り壁によって北西側と南東側に分かれる。南東側は四本の柱が屋根を支えるモスクの礼拝室で、ミフラーブの両脇にイサクとリベカのセノタフが対になって置かれる。北西側では八角形の小室にアブラハムとサラ、ヤコブとレアのセノタフが収まり、中央部は空に開いている。赤と白の石を縞状に積んだセノタフは、ふだんは刺繍の布に覆われている。地下の洞穴そのものには現在立ち入ることができず、礼拝室の床に開いた細い竪穴が、その存在をわずかに示している。
マクペラの洞穴は、一つの囲壁のなかに二千年にわたる宗教建築の層を重ねた建物である。ヘロデ期の石積みの内側に、ビザンティンの教会、十字軍のヴォールト、アイユーブ朝とマムルーク朝の付加がそれぞれの痕跡をとどめる。2017年、ユネスコは「ヘブロン/アル=ハリール旧市街」を世界遺産に登録し、同時に危機遺産リストにも記載した。その中核をなすのがこの建物である。現在もムスリムとユダヤ教徒がそれぞれ別の入口から礼拝に訪れ、周囲は厳重な警備のもとに置かれている。