シリア西部、ホムス回廊を見下ろす丘上に立つ十字軍の城。1142年から聖ヨハネ騎士…
死海西岸、ユダヤ砂漠の卓状台地に築かれたヘロデ大王の要塞宮殿。前37年ごろから城壁・貯水槽・三段の北宮殿が整えられ、第一次ユダヤ戦争では反乱軍最後の拠点となった。ローマ軍の包囲遺構も残る。
§1 — 概要マサダは、死海の西岸に切り立つ卓状の台地の上に築かれた要塞宮殿である。地質学的には周囲が落ち込んで孤立した岩塊で、東側は約400メートル、西側は約90メートルの断崖をなし、頂部はおよそ550メートル×270メートルの菱形の平坦地となっている。登路は三本の細い曲がりくねった道に限られ、天然の要害をなす。現在見られる遺構の主要部は、ローマの後ろ盾でユダヤを統治したヘロデ大王の造営によるもので、周囲に残るローマ軍の包囲施設とあわせて2001年に世界遺産に登録された。
1世紀の歴史家フラウィウス・ヨセフスによれば、この地を最初に要塞化したのはハスモン朝のアレクサンドロス・ヤンナイオスであるが、それに対応する建築遺構は今のところ確認されていない。ヘロデは前43年以降の権力闘争のなかでこの台地を確保し、前37年から前31年ごろにかけて、反乱に備える避難所として大規模な要塞と二つの宮殿を築いたとされる。
第一次ユダヤ戦争が始まった66年、シカリ派と呼ばれる過激な一派が計略によってローマ守備隊からマサダを奪った。エルサレム陥落後も彼らはここに立てこもり、73年、ユダヤ属州総督ルキウス・フラウィウス・シルウァが第10軍団を率いて包囲する。ローマ軍は台地を取り巻く環状包囲線を築き、西面に高さ約114メートルの攻城斜路を築いて破城槌を押し上げた。地質調査により、この斜路の大半は自然の岩尾根を利用したものと確認されている。ヨセフスは、城壁が破られた73年ないし74年の春、籠城していた約960人が投降を拒んで死を選んだと記す。ただし発掘で確認された遺骨は多くとも28体分にとどまり、火災の痕跡や宮殿の数についても記述と考古学的所見の食い違いが指摘されており、この結末をどこまで史実とみるかは議論が続いている。
その後、ビザンティン期には小さな教会が営まれ、文献にみえるマルダ修道院と同定されている。近代における同定は1838年、実測を伴う本格的な発掘は1963年から1965年にかけてイガエル・ヤディンが率いた調査による。宮殿群、倉庫に残る食糧、沐浴施設、シナゴーグ、ヘブライ語の写本、名を記した陶片などが良好な状態で見いだされた。
台地の縁は、全長約1300メートル、高さ約4メートルのカセメイト式城壁が全周し、多数の塔で補強される。壁の間に連なる小室は倉庫や居室として使われた。最も凝った建築は北端の宮殿で、断崖に三段のテラスを穿ち、上段に居住区、中段に円形の列柱亭、下段に列柱に囲まれた広間を配する。段ごとに岩を刻み、擁壁で支えて張り出させた構成であり、砂漠と死海を一望する眺めを設計の主題としている。壁面はフレスコで装飾され、石材でない部分は漆喰で石積みや大理石を模して仕上げられた。床には幾何学文のモザイクが敷かれるが、人物や動物の像は避けられている。
西宮殿はより大きく、儀礼と行政の場を兼ねた。台地上にはローマ式の浴場が置かれ、床下に熱気を通すヒュポカウストを備える。乾燥地での長期滞在を可能にしたのは水利の工夫で、稀な降雨による涸れ谷の流水を導水路で受け、岩を刻んだ多数の貯水槽に貯えた。総容量は約4万立方メートルと見積もられ、そこから水は人力で台地上へ運び上げられた。ほかに大規模な倉庫群、ユダヤ教の沐浴槽ミクヴェ、反乱期に改造されたとみられるシナゴーグが残る。台地の下には、ローマ軍が築いた包囲壁と八つの陣営が、砂漠の乾燥のためにほぼ完全な平面を保ったまま残っている。
マサダは、ヘロデ大王の造営事業の性格を最もよく示す遺跡である。ローマの浴場技術と装飾を全面的に導入しながら、偶像を避けるユダヤの規範のもとで装飾を幾何学文と植物文に限るという選択が、床と壁のすみずみに現れている。また、水をどう集め、どう貯えるかという問いに対する古代の解答が、これほど完全に残る例は少ない。周囲のローマ軍の包囲遺構は、古代の攻城戦の全体像を地表から読み取れるきわめて稀な事例として、遺跡の価値の中核をなしている。20世紀のイスラエルでは籠城の物語が国民的な象徴として語られたが、近年は史料批判と発掘所見を踏まえた再検討が進んでいる。現在はロープウェイと「蛇の道」と呼ばれる登山路で頂上に達することができ、国内有数の来訪者を集める。