播磨平野の姫山に築かれた日本の近世城郭の到達点。1601年から池田輝政が8年を費や…
シリア西部、ホムス回廊を見下ろす丘上に立つ十字軍の城。1142年から聖ヨハネ騎士団が築き改め、13世紀に二重の城壁をもつ同心円式城郭として完成した。中世築城術の到達点として名高い。
§1 — 概要クラック・デ・シュヴァリエ(アラビア語名カラート・アル=ホスン)は、シリア中部ホムスの西およそ40キロメートル、標高約650メートルの丘の上に立つ城である。地中海岸のトリポリと内陸のホムスを結ぶ隘路、いわゆるホムス回廊を押さえる位置にあり、周囲の平野を一望する。二重に巡らされた石造の城壁が良好に残り、中世の城郭のなかでも保存状態が際立って良い例として知られる。2006年にカラート・サラーフ・アッディーンとともに世界遺産に登録され、2013年からは危機遺産のリストに置かれている。
この地に城が置かれたのは1031年、アレッポとホムスを支配したミルダース朝の太守がクルド人部隊を駐屯させたときにさかのぼる。「クルド人の城塞」を意味するヒスン・アル=アクラードの名はこれに由来するが、当時の建物の痕跡は今日まったく残っていない。第1回十字軍が1099年に一時占拠したのち放棄し、1110年に恒久的な占領が始まる。1142年、トリポリ伯レーモン2世がこの城を含む複数の城塞を聖ヨハネ騎士団に譲り、伯領の防衛を委ねた。
騎士団は旧来の砦を捨てて新たな城の建設に取りかかり、1170年ごろまでに現在の内郭にあたる部分をほぼ築き上げる。同年の地震で礼拝堂が損壊し、1202年の地震でも被害を受けたが、そのつど修復と増築が重ねられた。13世紀前半には外郭が加えられ、二重の囲いをもつ現在の姿となる。1212年の史料は常時2000人規模の守備兵を伝えており、これだけの兵力を養えたことが、周辺一帯から貢納を取り立てる力の裏づけとなった。1163年にはヌールッディーンの攻勢を、1188年にはサラーフッディーンの侵攻を退けている。
終わりは1271年に訪れた。マムルーク朝のスルターン、バイバルスは3月初旬に城を包囲し、外郭を破って中庭を占領したのち、トリポリ伯からの開城勧告を装った偽の書状を送り込み、4月上旬に守備隊を退去させた。城は修復されて礼拝堂はモスクに改められ、以後マムルーク朝の拠点となる。オスマン帝国期には軍事的意義を失い、19世紀末から20世紀初頭にかけて城内は村落と化した。1928年にフランスの調査隊が最初の全面調査を行い、1930年代に住民が麓へ移されて整備が始まる。1946年の独立後はシリア政府の管理下に入った。2012年から2014年にかけてのシリア内戦で砲撃と空爆による損傷を受け、2018年から修復作業が続いている。
城は同心円式城郭の完成形とされる。外郭の城壁(幕壁)は厚さ約3メートル、西面には半円形の塔が並ぶ。外壁と内壁の間隔はあえて狭く取られ、通路は折れ曲がっているため、外郭を突破した敵は破城槌のような大型の攻城兵器を持ち込めず、両側の壁から挟み撃ちにされる。壁の上部には箱状に突き出したマチコレーションが連なり、真下の敵に石を落とせる。壁面には矢狭間が穿たれ、頂部は胸壁で守られる。入口にはかつて跳ね橋が架けられていた。
内郭の南面には、高さ・厚みともに際立つ石造の斜堤が築かれている。坑道戦と地震の双方に備えた措置であり、この城の外観を特徴づける要素でもある。内部の建築は騎士団によってゴシックの意匠でまとめられ、中庭に面して繊細なトレーサリーをもつロッジアが開き、その奥に大広間と礼拝堂が並ぶ。長さ120メートルに及ぶヴォールト屋根の細長い部屋は倉庫や厩舎として使われた。水は導水路で運ばれて大貯水槽に貯えられ、食糧とあわせて数年の籠城に耐えると考えられていた。マムルーク朝期には南に方形の堡塁と門塔が加えられ、碑文とともに征服者の手が残されている。
十字軍国家の城は、西欧の築城術とビザンティン・イスラーム圏の技術が接触した場所であり、この城はその交流の成果を最もまとまった形で示している。T・E・ロレンスをはじめ近代の観察者がこの城を絶賛したことで、十字軍城郭研究の出発点ともなった。他方、内戦による損傷は、遺跡が政治情勢から切り離されえないことをあらためて突きつけた。修復は段階的に進み、2022年に第一段階が完了している。丘に登る道から見上げる二重の輪郭は、防御という要請だけで到達しうる造形の高さを、今も端的に示している。