EST. 2026 — Editorial Archive of Notable Architecture
ミーソン聖域
© Andre Hospers / CC BY 4.0
FIG. 01 — Q391406
様式 · チャンパ建築 時代 · 古代 類型 · 宗教建築 ★ 世界遺産「ミーソン聖域」(1999年登録)

ミーソン聖域 Mỹ Sơn

Thánh địa Mỹ Sơn

ベトナム中部、山に囲まれた盆地にあるチャンパ王国の聖域。4世紀末から13世紀にかけて歴代の王がシヴァ神の祠堂を築き、煉瓦造の塔堂群が残る。ベトナム戦争の爆撃で多くを失ったが、1999年に世界遺産に登録された。

FIG. 02 — Location15.7632° N 108.1244° E
ベトナム ダナン市
§1 — 概要

概要

ミーソン聖域(Mỹ Sơn Sanctuary)は、ベトナム中部、トゥボン川の源流に近い山あいの盆地に営まれたチャンパ王国の宗教的中心地である。チャンパは、インドの宗教と文化を受け入れながら現在のベトナム中部・南部の沿岸に栄えたチャム人の国で、ミーソンでは歴代の王がヒンドゥー教シヴァ派の神を祀る祠堂を建て続けた。かつて70棟を超えた煉瓦造の建物群は、4世紀から13世紀に及ぶ造営の歴史を伝えている。

歴史

記録に残る最初の造営は、4世紀末から5世紀初めに在位したバドラヴァルマン1世によるものである。王は谷全体をシヴァ神に捧げ、自らの名を冠したバドレーシュヴァラのリンガを祀る木造の堂を建てた。この堂は6世紀に火災で失われ、7世紀にシャンブヴァルマン王が再建して、その経緯を刻んだ碑を立てている。以後、王たちは古い祠堂を修復しつつ新たな建物を加え、今日残る建物の多くは10世紀末から11世紀にかけて建てられた。記録上の最後の大きな事績は1243年の碑文で、15世紀初めまでにこの地はベトナム(大越)の支配下に入り、聖域は忘れられていった。

1898年にフランス人カミーユ・パリが遺跡を再発見し、翌年からフランス極東学院のアンリ・パルマンティエが71棟の遺構を調べて、群ごとのアルファベットと番号による呼称を定めた。1937年からは修復も始まったが、ベトナム戦争中の1969年8月、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線の拠点となっていた一帯を米軍が爆撃し、主祠堂A1をはじめ多くの建物が破壊された。戦後は1980年代からポーランドの修復チームが保存に取り組み、近年はイタリアやインドの協力による修復が進められている。

建築的特徴

聖域の中心となるのは、カランと呼ばれる塔状の祠堂である。方形の基壇の上に聖室を収めた身舎を立て、その上に段状に小さくなる屋根を重ねて、神々の住む須弥山をかたどる。入口は多く東に開き、残る三面には偽扉を設ける。祠堂の前には参拝のためのマンダパ、脇には神の財宝を納めるコーサグリハが置かれ、周壁と門塔がこれらを囲んで一つの寺院を構成する。B5のコーサグリハに見る、中央が低く両端が反り上がった鞍形の屋根は、チャンパ建築に特有のものである。

建物は焼成煉瓦で築かれ、戸口の枠や柱、台座など要所には砂岩が用いられた。煉瓦はきわめて薄い目地で密着させて積まれており、目地材には植物性の樹脂が使われたとする分析もあるが、その工法はいまも完全には解き明かされていない。壁面の付け柱や壁龕、天女や神々の彫刻の多くは、積み上げた煉瓦に直接彫り込まれている。美術史では、ミーソンE1様式やミーソンA1様式など、この遺跡の建物の名を冠した様式区分が用いられ、チャンパ美術の変遷をたどる基準となっている。

意義・現在

ミーソンは、インドに源をもつ宗教と建築が東南アジアの土地で独自の形式へと展開した過程を、時代ごとに異なる祠堂の連なりのなかに示す遺跡である。1999年、ユネスコ世界遺産に登録された。爆撃を免れた祠堂にも構造の劣化が懸念されており、周辺にはなお不発弾の危険が残る。出土した彫刻の多くは、ダナンのチャム彫刻博物館に収められている。

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LAST EDIT — 2026.10.21
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