ペロポネソス半島南部、スパルタを見下ろすタイゲトス山麓の中世城塞都市。1249年のフランク人の城に始まり、14〜15世紀にはビザンティン帝国モレアス専制公領の首都として栄えた。宮殿と教会群が残る。
§1 — 概要概要
ミストラス(Mystras/ギリシア語 Μυστράς)は、ギリシア南部ラコニア地方、タイゲトス山脈の支脈の斜面に築かれた城塞都市の遺跡である。山頂の城砦、斜面に展開する上市街と下市街、専制公の宮殿、多数の教会と修道院からなる。14〜15世紀にはビザンティン帝国の地方政権モレアス専制公領の首都となり、「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれる文化の最後の中心地の一つとなった。後期ビザンティンの都市の姿をよく伝える例として1989年に世界遺産に登録されている。日本語ではミストラとも表記される。
歴史
起源は十字軍国家アカイア公国にある。1248年にペロポネソス半島の征服を完了したアカイア公ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアンは、翌1249年、周辺の山岳部族を抑える拠点として、古代スパルタに近い丘の上に城を築いた。しかし1259年のペラゴニアの戦いでニカイア帝国軍の捕虜となり、釈放の代償として1262年にミストラスを含む城塞群をビザンティン側に割譲する。以後ミストラスはビザンティン領ペロポネソスの総督の座となり、フランク人との戦乱を避けて平地のスパルタから移り住む人々によって、城の下に町が形成された。
1349年、皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスは子マヌエルを専制公としてこの地に送り、ミストラスはモレアス専制公領の首都となった。マヌエルのもとで市街を囲む城壁と門が整えられ、ヴィルアルドゥアンの居館は宮殿へと拡張される。1383年以降はパレオロゴス家の専制公が治め、宮殿の増築と教会・修道院の建設が相次いだ。新プラトン主義の哲学者ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンはこの地で教え、1452年に没している。最後のビザンティン皇帝コンスタンティノス11世も、即位前にここで専制公を務めた。1460年5月、専制公デメトリオスがオスマン帝国のメフメト2世に都市を明け渡す。
オスマン期とヴェネツィアの支配期(1687〜1715年)を通じて町は存続したが、1770年のオルロフの反乱に伴う略奪と、1825年のギリシア独立戦争中のイブラヒム・パシャ軍による破壊で荒廃した。1830年代に東へ約8キロメートルの平地に新市街スパルティが建設されると住民は移り、最後の住民も20世紀半ばに退去した。
建築的特徴
都市は急斜面に沿って上下に分かれる。山頂には13世紀のフランク人の城砦が、その下に宮殿と貴族の住まいが集まる上市街が、さらに下に後から発達した下市街が広がり、両者はモネンヴァシア門とナフプリオン門で区切られる。斜面が急なため車両は通れず、街路の多くは石段の小径である。
専制公の宮殿は、13世紀から15世紀にかけて段階的に増築された複数の棟からなる複合建築で、ギリシアに残る唯一のビザンティンの宮殿群とされる。最後に建てられた北西の棟は3層で、下層を居室と倉庫、最上層を大きな謁見広間とする構成が、コンスタンティノープルのテクフル・サライと共通する。15世紀初めのフランゴプロス邸やラスカリス邸は、貯水槽や厩舎に使うヴォールトの下部構造の上に、バルコニーを備えた主室を載せている。
教会建築では、この地で生まれた独自の形式が注目される。14世紀初めに建てられたブロントキオン修道院のオディギトリア聖堂(アフェンディコ)は、1階を三廊式のバシリカ、2階のギャラリー階を5つのドームを戴く内接十字式とする二層の複合形式を初めて採用した。「ミストラス型」と呼ばれるこの形式は、15世紀前半に改築された府主教座聖堂(アギオス・ディミトリオス)と、1428年ごろ創建のパンタナッサ修道院のカトリコンに受け継がれる。パンタナッサでは尖頭アーチの窓や花綱の装飾、高い鐘楼に、フランク人を介した西欧ゴシックの影響がうかがえる。聖堂の内部はフレスコで覆われ、ペリブレプトス修道院やパンタナッサには後期ビザンティン絵画の優品が残る。
意義・現在
ミストラスは、帝都コンスタンティノープルが衰退していく時代に、ビザンティンの建築と絵画が最後の創造性を示した場所である。ここに集った学者たちはイタリアの人文主義者とも交わり、プレトンは1439年に皇帝ヨハネス8世に随行してフィレンツェに赴き、プラトン哲学への関心を西欧に呼び起こした。遺跡に暮らすのは現在、パンタナッサ修道院の修道女のみである。専制公の宮殿は42年に及ぶ修復を経て2026年5月に一般公開が再開され、内部で常設展示が始まった。