シリア西部、ホムス回廊を見下ろす丘上に立つ十字軍の城。1142年から聖ヨハネ騎士…
ヘルシンキ沖の8つの島にまたがる海上要塞。1748年にスウェーデン王国が対ロシア防衛のため着工し、エーレンスヴァルドの設計によりヴォーバン流の稜堡式築城を岩礁の地形に沿わせて展開した。
§1 — 概要スオメンリンナ(Suomenlinna/スウェーデン語名スヴェアボリ Sveaborg)は、フィンランドの首都ヘルシンキ中心部の南東約4キロメートルの海上に築かれた要塞である。8つの島のうち6島が要塞化され、うち5島は橋や砂州で結ばれている。18世紀ヨーロッパの軍事建築を代表する遺構として1991年に世界遺産に登録された。現在は約900人が暮らす市街地区でもあり、博物館、芸術家の工房、海軍士官学校が置かれ、フェリーで結ばれた行楽地として年間を通じて訪問者を集める。
大北方戦争でバルト海の覇権を失ったスウェーデンは、ロシアがサンクトペテルブルクと海軍基地クロンシュタットを築いたことで、フィンランド沿岸の防備の不足に直面した。1741〜43年の戦争でフィンランドをロシア軍に占領された経験を経て、1747年に議会はヘルシンキに海軍基地を兼ねる要塞を築くことを決め、中佐アウグスティン・エーレンスヴァルドに設計と工事の指揮を委ねた。
工事は1748年1月に始まり、同年秋には約2500人、1750年には6000人を超える兵士が労働力として投入された。グスタフスヴァルド(現クスターンミエッカ)の防御は1751年、中枢のヴァルグー(現スシサーリ)島の主要部は1754年に整い、要塞は未完成ながら機能を備えた。七年戦争への参戦で1757年に工事は失速し、党派抗争による解任をはさんで、エーレンスヴァルドは1772年に没するまで事業に関わった。遺骸は要塞内に葬られ、墓碑は国王グスタフ3世自身が意匠した。
「北のジブラルタル」と呼ばれた要塞は、1808年のフィンランド戦争でロシア軍に包囲され、5月3日、2か月ほどで降伏した。翌年フィンランドはロシア帝国内の大公国となり、要塞もロシア軍の拠点として兵舎の増設や造船所の拡張が進む。1855年のクリミア戦争では英仏艦隊が47時間にわたる艦砲射撃を加え、大きな損害を与えた。1917年のフィンランド独立後、1918年5月12日に現在の名「スオメンリンナ(フィンランドの城)」に改められる。同年から翌年にかけては内戦の捕虜収容所が置かれ、1000人を超える死者を出した。1973年、大部分が国防当局から民政下に移され、専門の管理機関が保存と運営を担うようになった。
エーレンスヴァルドの計画の独自性は、フランスの築城家ヴォーバンの影響を受けた稜堡式城郭を、平地ではなく起伏の激しい岩礁の島々に適用した点にある。星形の輪郭を幾何学的に描き切るのではなく、島ごとに独立した防御線を置き、岩盤の形に沿って稜堡と幕壁を折り曲げている。城壁は低く抑えられ、海上の敵艦から目立ちにくい。城壁の内部にはヴォールトの室が組み込まれ、築城の初期には兵士の居所にもあてられた。
要塞の中心には群島艦隊のための造船所が置かれ、要塞は同時に一つの町でもあった。士官の住居はバロックの都市構成のなかに組み込まれ、イソ・ムスタサーリ島にはパリのヴァンドーム広場を範とする広場も計画されたが、半ばで終わっている。建物の多くは城壁線に沿って配され、防御と居住が一体となった景観をつくる。ロシア期の兵舎、クリミア戦争後に島の西縁と南縁に築かれた土塁と砲座なども重なり、複数の時代の軍事技術が一か所で比較できる。1854年に守備隊の教会として建てられた教会は、1929年に灯台を兼ねるよう改修され、現在も灯火をともしている。
スオメンリンナは、18世紀の稜堡式築城がバルト海の地形にどう適応したかを示す、保存状態の良い実例である。スウェーデン、ロシア、フィンランドの三つの国家が相次いで用いた軍事拠点として、フィンランドの国家形成の歴史も刻んでいる。城壁の維持補修には、志願した受刑者が働く作業所の制度も活用されている。軍の管理を離れた後、城壁と稜堡の間はそのまま住民と来訪者の歩く空間となり、要塞という建築類型が近代以降にたどった転用の一つのかたちを示している。
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