ドイツ中部、アイゼナハを見下ろす尾根に建つ中世の城。12世紀後半の後期ロマネスクの居館パラスを核とし、ルターが新約聖書を訳した場としても知られる。19世紀に国民的記念物として再建され、1999年に世界遺産に登録された。
§1 — 概要概要
ヴァルトブルク城(Wartburg)は、ドイツ中部テューリンゲン州の町アイゼナハの南西、標高約410メートルの尾根に築かれた城である。テューリンゲン方伯家の居城として栄え、12世紀後半に建てられたパラス(居館)は、アルプス以北で最も保存状態のよい世俗のロマネスク建築の一つとされる。聖エリーザベトが暮らした宮廷、マルティン・ルターが新約聖書をドイツ語に訳した隠れ家、そして1817年の学生祭典の舞台として、ドイツ史の節目に繰り返し登場する。1999年、ユネスコの世界遺産に登録された。
歴史
伝承によれば、城は1067年ごろ、ルートヴィヒ跳躍伯(ルートヴィヒ・デア・シュプリンガー)によって築かれた。文献上の初出は1080年である。一族は1131年に方伯の位を得て、城はその本拠となる。方伯ルートヴィヒ2世のもとで1150年代後半に石造のパラスが建てられ、下層の梁材は年輪年代測定によって1157〜58年の伐採と判明している。12世紀末から13世紀初めにかけてのヘルマン1世の宮廷には詩人たちが集い、のちにワーグナーが歌劇『タンホイザー』に用いる「歌合戦」の伝説が生まれた。
15世紀に方伯の主な居所が他へ移ると、城は副次的な居城となり、前郭には石造に代わって安価な木骨造の建物が加えられた。1521年5月から翌年3月まで、帝国追放刑を受けたルターはザクセン選帝侯の保護のもと城内の一室に匿われ、ここで新約聖書のドイツ語訳を進めた。その後、城はしだいに荒廃するが、1817年には学生組合ブルシェンシャフトの学生約500人が集う「ヴァルトブルク祭」が開かれ、ドイツ統一運動の象徴的な場となった。
19世紀、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公カール・アレクサンダーは城を国民的記念物として再建することを決め、建築家フーゴ・フォン・リトゲンの設計で工事が進められた。パラスの修復と並行して、1850〜60年代に主塔、新居館(ノイエ・ケメナーテ)、ディルニッツと門楼が新築され、事業はリトゲンの没した翌年の1890年に完了した。東ドイツ時代の1950年代初めには、パラスの内部を創建時のロマネスクの姿に近づける改修も行われている。
建築的特徴
城は細長い尾根に沿って前郭と主郭が連なり、跳ね橋と門楼が唯一の入口となる。主郭の中心をなすパラスは、ほかの建物から独立して建つ3層の館で、中庭側の壁面には細い柱で区切られたアーチ窓が列をなし、柱頭にはロマネスクの彫刻が施されている。最上階を占める長さ約40メートルの祝祭の間は、城が方伯の居城となった後に、既存の建物の上へ継ぎ足された階である。
一方、内部装飾の多くは19世紀以降のものである。モーリッツ・フォン・シュヴィントが1850年代半ばに描いた「歌合戦」や聖エリーザベトの伝説のフレスコ、1902〜06年に制作された「エリーザベトの間」の色鮮やかなモザイクは、中世そのものではなく、19世紀が思い描いた中世の姿である。城の遠景を決定づける高いベルクフリート(主塔)も、中世の塔の跡の近くに1853〜59年に新築されたものである。
意義・現在
ヴァルトブルク城は、中世の実物と19世紀のリヴァイヴァルとが一つの輪郭に溶け合った、歴史主義期の文化財修復の典型例である。バイエルン王ルートヴィヒ2世はこの城を手本にノイシュヴァンシュタイン城を構想し、祝祭の間の意匠を自らの城に写した。現在はヴァルトブルク財団が管理して博物館として公開し、祝祭の間は演奏会や『タンホイザー』の上演にも用いられている。