トルコ東部、アルメニア国境の峡谷に臨む中世アルメニア王国の首都跡。10〜13世紀の大聖堂・教会堂・二重城壁が凝灰岩の彫刻とともに残り、「千一の教会の都」と呼ばれた交易都市の姿を伝える。
§1 — 概要概要
アニは、トルコ共和国東部カルス県、アルメニア共和国との国境をなすアフリアン川の峡谷に臨む三角形の台地に広がる廃都である。961年から1045年までバグラトゥニ朝アルメニア王国の首都であり、東西を結ぶ交易の結節点として栄えた。最盛期の人口は5万から10万と推定され、「千一の教会の都」と称された。これまでに50余りの教会堂と、洞窟礼拝堂を含む多数の宗教施設が確認されている。1236年のモンゴル軍による攻略と1319年の地震を経て衰微し、17世紀までにほぼ無人となった。2016年、「アニの考古遺跡」としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。
歴史
5世紀の年代記には、すでに丘上の堅固な城砦としてアニの名が現れる。9世紀初頭にバグラトゥニ家の版図へ組み込まれ、961年、アショト3世が首都をカルスからこの地に移した。スムバト2世(在位977〜989)は都市を囲む城壁を築き、992年にはアルメニア教会のカトリコス座も移されて、アニは政治と信仰の双方の中心となった。ガギク1世の治世(989〜1020)に最盛期を迎える。
1045年にバグラトゥニ朝は絶え、翌1046年にアニは東ローマ帝国へ降伏する。1064年にはセルジューク朝のアルプ・アルスラーンが25日の攻囲の末に城市を陥れて住民を殺戮した。1072年以降はクルド系のシャッダード朝が統治し、モスクや浴場が加えられる。1199年にグルジア王国のタマル女王が奪取し、ザカリアン家の統治下で第二の繁栄期を迎え、防御が強化されるとともに多くの教会堂が新造された。しかし1236年、モンゴル軍が城市を落として住民の多くを殺し、1319年の地震が致命傷となった。交易路の変化も重なって都市機能は失われ、1735年に最後の修道士が去って完全に放棄される。
19世紀末以降、ニコライ・マルによる発掘(1892年、および1904〜1917年)が遺構を初めて学術的に記録したが、第一次世界大戦後の政変で調査は中断し、出土品の多くは失われた。
建築的特徴
建材は付近で採れる火山性の凝灰岩で、乳白色から薔薇色、黒に至る色調をもち、加工が容易である。切石積みの壁面に細密な浮彫を施す手法が、アニの建築を一貫して特徴づける。
中心をなす大聖堂は989年に着工し、1001年に完成した。設計者は中世アルメニアを代表する建築家トルダトである。形式はドーム・バシリカで、内部には尖頭アーチと束ね柱が用いられ、外壁は細い付柱と盲アーケードで垂直に分節される。これらは西欧のゴシック建築に二世紀以上先行する要素であり、しばしば影響関係が論じられてきた。中央のドームは1319年の地震で崩落している。
ティグラン・ホネンツの聖グリゴル教会(1215年完成)は遺跡中もっとも保存がよく、盲アーケードのスパンドレルに実在と空想の動物が彫り出され、内部には聖グリゴルとキリストの生涯を主題とするフレスコ連作が残る。救世主教会(1035年頃)は外周19面・内部8アプスという特異な集中式をとり、1955年の嵐で東半分を失った。市域北辺には半円形の塔を密に連ねた二重の城壁がめぐり、南端の内城には7世紀に遡る城壁と王宮跡がある。シャッダード朝期のマヌーチフルのモスクは、クーフィー体の銘をもつミナレットを完存する。
意義・現在
アニの建築は、アルメニア教会建築の到達点であると同時に、ビザンティン・グルジア・イスラームの各伝統が交差する地点に立つ。ユネスコはこの多文化性と、7世紀から13世紀に至る建築類型のほぼすべてが一つの遺跡に揃う点を評価した。大聖堂を設計したトルダトが、989年の地震で崩れたコンスタンティノープルのハギア・ソフィアのドーム修復に招かれた事実は、当時のアルメニア石工技術がもった国際的な評価を示している。
遺跡は長く国境の軍事区域に隣接し、訪問には許可を要したが、2004年に制限は解かれた。度重なる地震、国境の対岸で行われた採石の発破、管理の不足による劣化が繰り返し指摘され、ワールド・モニュメント財団は1996年から2000年にかけて三度、危機に瀕する遺産として挙げている。2011年以降は同財団とトルコ文化観光省の協働で、大聖堂と救世主教会の保存作業が続く。
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