デンマーク、シェラン島北東端のヘルシンゲルに立つ城。エーレスンド海峡の最狭部を押さえる中世の城塞を、1574〜1585年にフレデリク2世がルネサンスの王城へ改築した。『ハムレット』の舞台エルシノアとしても知られる。
§1 — 概要概要
クロンボー城(デンマーク語 Kronborg)は、デンマークのシェラン島北東端、ヘルシンゲルの町外れに立つ城と要塞である。対岸のスウェーデンまで約4キロメートルしかないエーレスンド海峡の最狭部に位置し、バルト海の出入口を押さえる戦略拠点であった。16世紀後半に国王フレデリク2世が中世の城塞を改築した王城で、北ヨーロッパで最も重要なルネサンスの城の一つとされる。シェイクスピアの『ハムレット』では、町の英語名にちなむ「エルシノア」の城として描かれた。
歴史
前身は、1420年代に国王エーリク7世(ポンメルンのエーリク)が築いた城塞クローエン(Krogen、「鉤」の意)である。王は海峡を通る船に通行税を課し、当時デンマーク領であった対岸のヘルシンボリ城とともに、その徴収を武力で支えた。クローエンは方形の城壁の内側に石造の建物を並べた構成で、その壁の多くは現在の城の内部に取り込まれている。
北方七年戦争が1570年に終わると、フレデリク2世は火砲の発達に応じて城の近代化に着手した。1574年から、フランドル出身の建築家ハンス・ヘンドリック・ファン・パースヘンの指揮で、4つの稜堡をもつ防御施設の建設と城館の改築が進められ、1577年に城は「王冠の城」を意味するクロンボーと改称された。同年にパースヘンが退くと、まもなく同じくフランドル出身のアントニス・ファン・オッベルヘンが工事を引き継いだ。当初2階建てで再建されていた翼は1層ずつかさ上げされ、城は規模と壮麗さを大きく増した。彫刻はヘルト・ファン・フロニンゲンが統括し、城は1585年に完成した。
1629年9月、職人の不注意から出た火で城の大部分が焼け、堅固なヴォールトに守られた礼拝堂だけが焼け残った。クリスチャン4世は1631年ごろから建築家ハンス・ファン・ステーンウィンケル2世の指揮で再建を進め、外観はほぼ元の姿に戻されたが、扉口や暖炉、天井画はバロックの意匠で一新された。1658年にはスウェーデン軍に攻略され、中庭の噴水や天井画などが戦利品として持ち去られた。これを機に防備が強化され、1688年から1690年にかけて「クラウンワーク」と呼ばれる外塁が加えられた。1785年に王の居城としての役割を終えると軍の管理下に置かれ、陸軍が1923年に退去したのち、修復を経て1938年に一般公開された。
建築的特徴
城館は方形の中庭を4つの翼が囲む閉じた構成をとる。中世の建物を取り込みながら、外壁はスコーネ産の砂岩で覆われ、屋根は銅板で葺かれた。オッベルヘンは、アントウェルペンでコルネリス・フロリスらが発展させたフランドル・ルネサンスの様式に学んだ。高さや形の異なる塔が屋根の上に立ち上がり、変化に富んだ輪郭をつくっている。
南翼の上階にある舞踏の間は、62×12メートルの広さをもち、1582年の完成時には北ヨーロッパ最大の広間であった。その下、南翼の1階には中世の建物を改装した礼拝堂があり、同じく1582年に献堂された。北翼には王と王妃の居室が並び、東翼には、王妃が北翼の居室から南翼の舞踏の間へ移るための「王妃の回廊」が設けられた。
城館の外側には、稜堡と堀、土塁を幾重にも巡らせた要塞が広がる。17世紀末の強化を経て、クロンボーはヨーロッパで最も堅固な要塞と評されるに至った。
意義・現在
クロンボーは、ルネサンスの王城と近世の要塞が一体となった北欧の代表例であり、海峡通行税によって栄えたデンマーク王権を体現する建築である。2000年にユネスコ世界遺産に登録され、現在は博物館として公開されている。1816年、シェイクスピアの没後200年を記念して守備隊の兵士が『ハムレット』を上演して以来、ローレンス・オリヴィエやジョン・ギールグッドらによる公演が城内で重ねられてきた。地下の砲郭には、国の危機に目覚めるという伝説の英雄ホルガー・ダンスクの像が置かれている。