EST. 2026 — Editorial Archive of Notable Architecture
マドレーヌ寺院
© Greg Whalin / CC BY 2.0
FIG. 01 — Q330564

マドレーヌ寺院 La Madeleine

Église de la Madeleine

パリ8区、ロワイヤル通りの北端に立つカトリック教会。ナポレオンが軍の栄光を称える神殿として計画し、ヴィニョンとユヴェの設計で1842年に完成した。52本のコリント式円柱が四周を囲む、古代神殿そのままの外観をもつ。

FIG. 02 — Location48.8700° N 2.3244° E
フランス イル=ド=フランス地域圏 パリ
§1 — 概要

概要

マドレーヌ寺院(Église de la Madeleine、正式名はサント=マリー=マドレーヌ教会)は、パリ8区のマドレーヌ広場に立つカトリックの教区教会である。マドレーヌはフランス語でマグダラのマリアを指し、日本では慣用的に「寺院」と呼ばれる。南へ延びるロワイヤル通りの先にはコンコルド広場とセーヌ対岸のブルボン宮があり、教会はこの都市軸の北の終点をなす。四周をコリント式の円柱で囲んだ姿は教会というより古代の神殿であり、新古典主義の時代に古代神殿の外形を最も忠実に再現した大建築の一つである。

歴史

新しい教会の建設は、18世紀半ばのルイ15世広場(現コンコルド広場)とロワイヤル通りの整備にあわせて決まった。1757年にピエール・コンタン・ディヴリが設計を任され、1763年にはルイ15世が定礎している。ドームを戴くラテン十字の当初案は工事の停滞のなかで見直され、1777年に後任となった弟子のギヨーム=マルタン・クチュールは、サント=ジュヌヴィエーヴ聖堂(現パンテオン)に倣ってギリシア十字に大ドームと柱廊を組み合わせた案に改めた。しかし資金難が続き、柱が柱頭の高さまで立ち上がったところで、1791年末に工事は議会の決定で打ち切られた。

革命期には議場、図書館、証券取引所などへの転用案が次々に出された。決着をつけたのはナポレオンである。1806年12月、皇帝は未完の建物を「大陸軍の栄光の神殿」とする勅令を出して競技設計を開き、1807年、アカデミーの推薦を退けてピエール=アレクサンドル・ヴィニョンの案を自ら選んだ。クチュール時代の構築物は取り壊され、新たな工事が始まった。

1812年のロシア遠征の失敗後、ナポレオン自身が神殿構想を捨て、建物を教会に戻す方針に転じた。王政復古期のルイ18世はルイ16世らを悼む贖罪の教会とすることを命じたが、資金は乏しく、工事はほとんど進まなかった。1828年にヴィニョンが没すると、早くから現場にいたジャン=ジャック=マリー・ユヴェが指揮を引き継ぐ。七月王政のもとでは1837年に鉄道駅への転用まで検討されたが退けられ、失業対策の公共事業予算も得て1842年に工事は完了した。同年に教区の礼拝がこの建物へ移り、1845年10月に献堂されている。最初の定礎からおよそ80年を要したことになる。

建築的特徴

建物は高い基壇の上に載る長方形の周柱式神殿で、長さ約108メートル、幅約43メートル、高さ約30メートルに及ぶ。正面(南側)は8本柱のポルティコで、高さ約20メートルの円柱52本が建物の四周を一巡する。外観はアテネのオリュンピエイオン(ゼウス神殿)としばしば比べられる。正面のペディメントにはアンリ・ルメールによる「最後の審判」の浮彫(1833年)が収まり、罪人のために祈るマグダラのマリアが表される。青銅の大扉はアンリ・ド・トリケティの作で、十戒を主題とする。列柱の内側の壁には、ユヴェの提案で聖人像を納める壁龕が並ぶ。

マドレーヌ寺院の平面図。外周を列柱がめぐる
マドレーヌ寺院の平面図(1861年)。外周を列柱がめぐり、内部は三つのドームの区画と半円形の内陣からなるLèbe-Sigun, dessinateur / CC0(パブリックドメイン) — Wikimedia Commons

外観が神殿であるのに対し、内部は古代ローマのテルマエの大広間に範をとる。翼廊のない一続きの身廊を三つの区画に分け、それぞれにドームを架けた。側壁に窓はなく、光はドームの頂部から落ちる。壁と天井は色大理石と金彩で覆われ、北端の内陣の半ドームには、ジュール=クロード・ジーグレールがキリスト教の歴史を描いた壁画がある。その下の主祭壇にはカルロ・マロケッティの彫刻「マグダラのマリアの法悦」が置かれ、入口近くにはフランソワ・リュードの「キリストの洗礼」がある。内部の装飾は七月王政期の短い期間に一括して整えられたため、多くの画家・彫刻家が関わりながらも統一感が保たれている。

マドレーヌ寺院の内部。身廊の奥に内陣の半ドームが見える
身廊から内陣を望む。光はドームの頂部から入り、内陣の半ドームにはジーグレールの壁画が描かれるZairon / CC BY-SA 4.0 — Wikimedia Commons

意義・現在

マドレーヌ寺院は、王政、革命、帝政、王政復古、七月王政と移り変わる体制のもとで、用途も設計も揺れ動きながら完成した。その結果、ナポレオン期を象徴する神殿の外観と、七月王政期の美術を集めた教会の内部とが一つの建物に同居することになった。ロワイヤル通りの南端に立つブルボン宮の正面には、革命後、マドレーヌの柱廊と向き合うように列柱が加えられており、両者はパリの古典主義的な都市景観の軸を形づくっている。

献堂の直後から音楽との結びつきも深い。1846年にはアリスティド・カヴァイエ=コルの大オルガンが据えられ、カミーユ・サン=サーンスやガブリエル・フォーレが正オルガニストを務めた。1849年のショパンの葬儀をはじめ、多くの音楽家や著名人の葬儀がここで営まれている。1915年に歴史的記念物に指定され、2020年から2024年にかけて南正面の洗浄と修復が行われた。現在も教区教会として使われており、北面の修復も計画されている。

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データ: Wikidata (Q330564) / 解説: Wikipedia 日本語版 · English / 画像: © Greg Whalin / CC BY 2.0 — Wikimedia Commons
LAST EDIT — 2026.10.26
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