敦煌郊外、鳴沙山東麓の崖に穿たれた仏教石窟群。366年の開鑿に始まり元代まで千年にわたって掘り継がれ、現存735窟に壁画と彩色塑像を伝える。1987年に世界遺産に登録された。
§1 — 概要概要
莫高窟は、中国甘粛省敦煌市の東南およそ25キロメートル、鳴沙山東麓の崖に南北約1.6キロメートルにわたって穿たれた仏教石窟群である。千仏洞、敦煌石窟とも呼ばれる。現存する窟は735で、そのうち崖の南区にある約490が壁画と塑像を伴う礼拝の窟、北区の約250は僧の居住・禅定・埋葬にあてられた窟である。壁画の総面積は約4万6千平方メートルに達し、彩色塑像は2000体を超える。4世紀から14世紀までの千年にわたる仏教美術の変遷を一箇所で追える点で他に例がなく、雲崗石窟・龍門石窟とともに中国三大石窟に数えられる。1961年に全国重点文物保護単位、1987年に世界遺産に登録された。
歴史
敦煌は前111年に漢の武帝が置いた辺境の郡に始まり、シルクロードの要衝として東西の人と信仰が行き交う場となった。莫高窟の開鑿は、五胡十六国期に敦煌が前秦の支配下にあった366年、僧の楽僔がこの地で金色に輝く千体の仏の幻視を得て最初の窟を穿ったことに始まると伝えられる(353年とする文献もある)。次いで法良が続き、やがて僧の集団が形成された。現存最古の装飾窟は5世紀前半の北涼期のもので、両脚を交差させて坐す弥勒像に中央アジアからの影響が明瞭に見てとれる。
北魏・西魏・北周の支配層が窟の造営を支え、隋代に一気に数を増し、唐代には窟の数が千を超えたと伝わる。695年には則天武后の勅を受けて巨大な弥勒像が造られた。845年の会昌の廃仏を免れたのは、当時この地が吐蕃の支配下にあったためである。9世紀半ばに帰義軍が唐に復帰すると、張氏・曹氏の有力者が「家窟」を営み、施主自身の肖像を大きく描かせるようになる。西夏・元の時期には造営が細り、元代を最後に途絶えた。1372年に嘉峪関が築かれて関外に置かれると、敦煌は忘れられた土地となる。
再び注目されたのは1900年、道士の王円籙が壁の裏に封じられた小室(第17窟、蔵経洞)を発見したことによる。5世紀から11世紀初頭にかけての写本・絵画が数万点にのぼり、漢語のほかチベット語・ウイグル語・ソグド語・サンスクリットなどで記されていた。868年の年記をもつ『金剛般若経』は年代の明らかな現存最古級の印刷書物である。これらは調査に訪れた探検隊によって各地へ持ち出され、いまも北京・ロンドン・パリ・サンクトペテルブルクなどに分蔵されている。保護が本格化するのは20世紀半ば以降で、現在は敦煌研究院が管理にあたる。
建築的特徴
莫高窟は崖を掘り込んで内部空間をつくる岩窟建築である。ただし雲崗や龍門と異なり、この地の岩は軟らかい礫岩で、彫刻にも細かな建築意匠にも向かない。そのため像は岩から彫り出すのではなく、木や葦を芯に粘土を盛って造る塑像とし、壁面は下地を塗って絵画で覆うという方法がとられた。素材の制約が、この石窟群の性格そのものを決めている。
平面には大きく三つの型がある。ひとつはインドのチャイティヤ窟に由来する中心柱窟で、中央に残した方柱がストゥーパを意味し、参拝者はその周囲を右回りに巡る。もうひとつは中国の伝統的な仏堂に近い殿堂窟で、天井を四方から中央へ絞り込む覆斗形とし、しばしば天幕を模して彩色される。三つめは禅定のためのヴィハーラ型の窟で、一人が坐れるだけの小室を側面に穿つ。かつては多くの窟が崖から張り出す木造の前室を備えていたが、現存するのは五棟にすぎず、うち二棟は宋代の木造建築の稀少な遺構である。なかでも巨大な弥勒像を納める第96窟の前面に立つ楼閣は、唐代の創建時は四層で、9世紀末と1898年の修理で層を重ね、20世紀の改修を経て現在の九層楼となった。崖面に赤い柱と重なる屋根が林立する外観は、この石窟群の象徴となっている。
壁画は5世紀から14世紀に及ぶ。北涼・北魏期には西方の影響が強く、本生図を横に連ねて筋を追わせる連続画が描かれた。隋唐期には中国的な要素が優勢となり、経典の内容を大画面の物語絵に翻訳する経変画が発達する。極楽浄土を描く画面が唐代の主題の中心となり、天井や仏の上方には飛天が舞う。壁一面を小さな坐仏で埋め尽くす千仏の意匠は、型紙を用いて同形を反復したもので、千仏洞の名の由来ともいわれる。初期の作例には陰影によって立体感を出すインド由来の技法が見られるが、鉛系顔料の酸化によって暗く変色し、現在は太い輪郭線のように見えている。
意義・現在
莫高窟の価値は、仏教美術の量と質にとどまらない。インド・中央アジア・中国の様式が一つの窟の中で混ざり合い、施主の肖像が世俗の風俗を伝え、蔵経洞の文書が宗教から契約書・辞書・楽譜までを含むことによって、シルクロードの千年が多層的に読み取れる点にある。ここから敦煌学と呼ばれる国際的な研究領域が生まれ、散逸した文書をデジタルで再統合する試みも続いている。保存の面では、来訪者がもたらす湿度と二酸化炭素の増加が壁画を脅かすため、見学は完全予約制とされ、人数と公開窟が厳しく管理されている。高精細な記録画像による代替公開が併用されているのも、原物をどう守りながら見せるかという問いへの一つの回答である。