スルタン・ハサン・モスク Mosque-Madrasa of Sultan Hassan
カイロ、シタデルの麓に建つマムルーク朝のモスク兼マドラサ。1356年に着工し、四方に開いたイーワーンにスンナ派四法学派の学舎を配する。中世カイロで最も高価な造営であり、マムルーク建築の到達点とされる。
§1 — 概要概要
スルタン・ハサン・モスク(Mosque-Madrasa of Sultan Hassan)は、エジプトのカイロ、シタデルの麓のサラーフ・アッディーン広場に面して建つ、モスクとマドラサを兼ねた複合建築である。バフリー・マムルーク朝のスルタン、ナースィル・ハサンの発願により1356年に着工し、1363年ごろまで工事が続いた。長さ約150メートル、高さ約36メートルという規模と、当時の常識を超えた意匠の数々によって、中世カイロの建築の頂点に数えられる。ユネスコ世界遺産「カイロ歴史地区」の構成資産である。
歴史
発願者のハサンは13歳で即位し、廃位と復位を経た人物である。造営は黒死病がカイロを繰り返し襲った時期に重なった。疫病で断絶した有力アミールの財産が国庫へ流入したことが、莫大な費用を支えたと考えられている。年代記作家マクリーズィーは、日々3万ディルハムが投じられ、総額は100万ディナールを超えたと記す。中世カイロで最も高価なモスクであった。工事は1361年のハサン暗殺の後も続いたが、装飾は各所で未完のまま終わっている。シタデルを見下ろす位置と堅固な構造ゆえに、建物はしばしば反乱勢力の砲台として使われ、そのたびに取り壊しが命じられた。1500年にはスルタン・ジャンバラートが解体を試みたが、三日かけても壁を崩せず断念している。1659年に北側のミナレットが倒壊し、1671年から翌年にかけて、より小ぶりなミナレットと現在の霊廟ドームに置き換えられた。
建築的特徴
外壁は石造で、長辺には四層分の窓が縦に並び、垂直性を強調する。壁頂にはムカルナスの厚いコーニスが1.5メートル張り出し、マムルーク建築では前例のない扱いであった。高さ約38メートルの入口門は、シタデルから見えるよう壁面から17度振って開かれており、その構成と装飾は同時代のアナトリアやイランの門に倣ったとみられる。当初は門の上にもミナレットを立てて計4本とする構想であったが、1361年に工事中の一基が倒壊して多数の死者を出し、断念された。内部は煉瓦造にスタッコと石の仕上げを施す。玄関広間から屈折した通路を抜けると、四方にイーワーンを開いた広大な中庭に出る。四つのイーワーンはスンナ派四法学派に対応し、各隅の扉から、四層の学生室が囲むそれぞれの小中庭へ通じる。キブラ側のイーワーンはひときわ大きく、クーフィー体の大銘文帯が全長を走り、多彩な大理石で覆われたミフラーブとミンバルが据えられる。そのキブラ壁の背後に霊廟が置かれ、礼拝の方向の先に墓室が来るという、ほかに例のない配置をとる。
意義・現在
この建物は、ワクフによって運営される礼拝と教育の複合施設という、マムルーク朝の建築が到達した一つの完成形である。四法学派を一つの中庭に集める構成、規模を強調する外観の操作、外来の意匠の大胆な導入は、いずれも以後のカイロの建築に長く影響した。霊廟は本来の役目を果たしていない。暗殺されたハサンの遺体は見つからず、代わりに二人の子が葬られている。19世紀末に設けられたアラブ美術記念物保存委員会以降、修復が重ねられ、中庭の大理石舗床は1912年の工事による。1869年には隣接地でリファーイー・モスクの建設が始まり、1912年の完成後は、二つの大モスクが向かい合う光景がこの一角の顔となっている。
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