エルサレム旧市街、神殿の丘/ハラム・シェリーフの西側を支える擁壁。前19年頃に…
ドイツ西部トリーアに残る古代ローマの城門。170年頃に着工したが仕上げを欠いたまま使われ、中世には二重聖堂に改造されたことで解体を免れた。現存するローマ時代の城門として最大級の規模をもつ。
§1 — 概要ポルタ・ニグラ(Porta Nigra)は、ドイツ西部、モーゼル川沿いの都市トリーアに立つ古代ローマの城門である。属州ガリア・ベルギカの都市アウグスタ・トレウェロルム(Augusta Treverorum)を囲む市壁の北の入口として、2世紀後半に建てられた。名はラテン語で「黒い門」を意味するが、これは中世以降の呼び名で、ローマ時代の名称は伝わっていない。もとは明るい色の砂岩が、風化と大気中の汚れで黒ずんだことに由来するとみられる。現存するローマ時代の城門として最大級であり、1986年に「トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂及び聖母マリア教会」の構成資産として世界遺産に登録された。
着工年は長く2世紀から4世紀まで諸説に割れていたが、2018年、市壁の基礎の排水に使われた木材を年輪年代法で調べた結果、169〜170年に伐られた木であることがわかり、170年頃の着工がほぼ確定した。マルクス・アウレリウス帝の治世にあたる。石材に刻まれた石工の印から、躯体は2〜4年で組み上がったと推定されている。ただし仕上げは最後まで行われず、門扉の回転軸にかかる石の突起も削られていないため、可動の扉が取り付けられたことはなかったと考えられる。かつては3世紀の外敵の侵入に備えた防御施設とみなされたが、年代が定まった現在では、平時に都市の威容を示すために計画され、資金の不足などで未完に終わったとする見方が有力である。トリーアには四方に門があったが、残るのはこの北門だけである。
中世初期に城門としての役目を失うと、石材や金具が建材として持ち去られた。1028年以降、シチリア出身のビザンティンの修道士シメオンが東塔にこもって隠者として暮らし、1035年に没すると列聖された。トリーア大司教ポッポは彼を記念して隣接地にシメオン修道参事会を設け、門そのものを上下2層の二重聖堂に改造した。中庭の上に床を張って身廊とし、東側にアプスを付け、西塔を鐘楼として高める一方、東塔の最上階は取り払った。地上の門口は土で埋められ、人々は南側の外階段から聖堂に上った。18世紀後半には上層の聖堂の壁面にバロックの装飾が彫り込まれている。教会として約750年使われ続けたことが、他のローマ建築のように石切り場とされる運命から門を救った。
1802年、フランス統治下で修道参事会と教会は廃止され、1804年にトリーアを訪れたナポレオンが中世の付加部分の撤去を命じた。工事は1809年まで続き、プロイセン統治下の1816〜17年に完了して、ローマ時代の姿がふたたび現れた。このとき東側のアプスは下部だけが残された。
門は東西に長い長方形の平面をもち、全長約36メートル、奥行き21.5メートル、高さは西塔で29.3メートルに達する。両端に塔を置き、その間を2棟の門楼でつないで、内側に小さな中庭を囲む。街道に面した北側では両塔が半円形に張り出し、門口は北と南の門楼にそれぞれ2つずつ開く。外門を破った敵を中庭に閉じ込めて上から迎え撃つ構えとされるが、実際には防御よりも見せることに重心を置いた構成である。西塔は4層、中央の門楼は3層で、各層には半円アーチの開口が並び、開口の間に半円柱を添えたアーケード状の立面が建物を一巡する。
素材は近郊のコルデル産の砂岩で、およそ7,200個の大きな切石が積まれ、重いものは6トンに及ぶ。石と石の間にモルタルは用いず、鉛で固定した鉄のかすがいで緊結していた。中世に金具が抜き取られた跡が、いまも外壁を不規則に穿っている。北面では半円柱や石の表面が荒削りのまま残り、仕上げを終えたローマ建築とは異なる、量塊の強い外観をつくっている。東側に残るロマネスクのアプスの基部や、扉口として拡げられた西塔の窓には、聖堂時代の改造の痕跡も読み取れる。
ポルタ・ニグラは、帝国北西辺境の都市がもった技術と財力を伝えると同時に、古代建築が中世に転用されることで生き延びた過程を一つの建物の中に示している。世界遺産としての評価でも、城門と二重聖堂という二つの性格をあわせもつ点が挙げられている。現在はトリーアの象徴として公開され、上層階にも入ることができる。周囲の車両通行は止められたが、長年の排気や煤による汚損が石を傷めており、2020年代後半にかけて南面を中心にレーザーで有害な付着層を除く修復が進められている。黒い色調そのものは、門の名の由来となった歴史的な外観として残す方針である。