EST. 2026 — Editorial Archive of Notable Architecture
ミラノ王宮
© Paolobon140 / CC BY-SA 4.0
FIG. 01 — Q51105

ミラノ王宮 Royal Palace of Milan

Palazzo Reale di Milano

ミラノ大聖堂に隣り合う、長い歴史をもつ宮殿。中世の都市政庁に始まり、ヴィスコンティ家やスフォルツァ家の居城を経て、18世紀にピエルマリーニが新古典主義へと改築した。1943年の空襲で大きな被害を受けたが、現在は国際的な大型美術展の会場として知られる。

FIG. 02 — Location45.4631° N 9.1912° E
イタリア ロンバルディア州 ミラノ
§1 — 概要

概要

ミラノ王宮(Palazzo Reale di Milano)は、ミラノの中心、ドゥオーモ(大聖堂)の南に隣接して建つ宮殿である。中世以来この街の政治の中心であり、歴代の支配者の居所として増改築を重ねてきた。現在見られる姿は、18世紀後半にハプスブルク家の宮廷建築家ジュゼッペ・ピエルマリーニが手がけた新古典主義の改築に由来する。第二次世界大戦の空襲で大きな痛手を受けたが、戦後に修復され、今日では国際的な大型美術展を催す文化拠点として知られる。

歴史

起源は中世にさかのぼり、当初は「ブロレット・ヴェッキオ(旧庁舎)」と呼ばれて、自治都市ミラノの政庁が置かれた。やがてヴィスコンティ家、スフォルツァ家といった領主の宮廷となり、16世紀以降はスペイン、続いてオーストリアの総督が居を構えた。大きな転機は18世紀後半に訪れる。ロンバルディアを治めることになったハプスブルク家のフェルディナント大公のため、宮廷建築家ピエルマリーニが1769年から1778年にかけて建物を一新した。ピエルマリーニは、レオポルド・ポラックの協力を得ながら、バロックの装飾を退けて簡潔な新古典主義の外観を与えた。大聖堂側の中庭の翼を取り払い、ピアッツェッタ・レアーレと呼ばれる前庭を開いたのもこの時である。ナポレオンはこの宮殿を居所とし、1805年にはここでイタリア王国を宣言した。1943年8月、連合軍の空襲が市街を襲い、王宮も屋根を失うほどの大被害を受けた。とりわけ大広間「カリアティードの間」は甚大な損傷を被った。戦後の長い修復を経て、宮殿はふたたび公共の場として開かれている。

建築的特徴

ピエルマリーニが与えた新古典主義の外観は、抑制を旨とする。ドゥオーモという過剰なまでに装飾的な隣人のかたわらで、王宮はあえて簡潔な壁面と均整のとれた構成を選び、節度ある威厳を示している。前庭ピアッツェッタ・レアーレに面する正面は、粗石積み(ルスティカ)の基壇の上にイオニア式の列柱を立て、ペディメント(三角破風)をいただく。内部の白眉は「カリアティードの間」で、四十体の女像柱(カリアティード)が梁を支える大舞踏室として設けられた。長さ46メートル・幅17メートルに及ぶこの広間は、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間に並ぶ規模をもつ。1943年の空襲で焼けた後、傷ついたまま残された部分の一部はあえて修復されず、戦争の記憶をとどめている。

意義・現在

ミラノ王宮は、中世の自治都市から、ヴィスコンティ・スフォルツァの公国、ハプスブルクとナポレオンの時代、そして統一イタリアへと至る、この街の権力の変遷をそのまま体現する建物である。ピエルマリーニによる改築はミラノにおける新古典主義の出発点となり、同じ建築家の手になるスカラ座とともに、啓蒙期ロンバルディア建築を代表する仕事に数えられる。建物は1920年代に公開され、今日では年間を通じてモネやカラヴァッジョといった大型展が開かれる、市を代表する展覧会場となっている。

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LAST EDIT — 2026.06.21
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