イラン中部エスファハーンの旧市街にある会衆モスク。8世紀後半の創建以来、セルジ…
イラン北西部、湧水湖を囲む石灰華の台地に築かれたゾロアスター教の聖地。サーサーン朝の拝火神殿アードゥル・グシュナスプと王宮の遺構に、13世紀イル・ハン朝の夏の宮殿が重なる。2003年に世界遺産に登録された。
§1 — 概要タフテ・ソレイマーン(Takht-e Soleymān/تخت سلیمان、「ソロモンの玉座」の意)は、イラン北西部・西アーザルバーイジャーン州の山間盆地、標高約2,200mにある遺跡である。石灰分を含む湧水が沈殿してできた楕円形の台地(約350×550m、周囲の平野から約60m)の上に、湧水湖を囲んでサーサーン朝の拝火神殿と王の宮殿が置かれ、13世紀にはイル・ハン朝の宮殿がその上に重ねられた。ゾロアスター教の最高位の三聖火の一つ、アードゥル・グシュナスプを祀った聖地であり、2003年に世界遺産に登録された。
台地からはアケメネス朝期やパルティア期の居住の痕跡も見つかっているが、大規模な造営はサーサーン朝の5世紀に始まる。ユネスコの評価書は着工をペーローズ1世(在位459〜484年)の治世とする。最初の聖域は日干し煉瓦の建物群を胸壁付きの周壁で囲んだもので、6世紀に石造で建て直された。聖域はホスロー1世、ホスロー2世の時代に王家のゾロアスター教聖域として最も重んじられ、王は即位後や遠征の前に参詣したと伝えられる。
620年代、東ローマ皇帝ヘラクレイオスの遠征で聖域は略奪・破壊された。聖火は難を逃れて再び祀られ、イスラーム期に入っても10世紀末頃まで祭祀は続いたが、やがて遺構は集落に取り込まれていった。「ソロモンの玉座」の名は、イスラーム期にソロモン王の伝承と結びついて生まれたものである。
13世紀、イル・ハン朝の第2代君主アバカ(在位1265〜1282年)は、住民を移したうえでサーサーン朝の遺構の上に狩猟と避暑のための宮殿を建てた。工事は1270年代初めに始まったとみられ、子のアルグンの代に完成したとされる。宮廷はここで政務や儀礼も行った。14世紀半ば以降は放棄されて荒廃し、19世紀にヨーロッパの旅行者が遺跡を記録した。ドイツ考古学研究所が1959年から1975年にかけて体系的な発掘を行っている。
台地の縁には石造の周壁がめぐり、高さ約13m、38基の塔と南北2か所の入口をもつ。周壁の内側では、湖の北に一辺約180mのほぼ方形の区画がとられ、その中心に焼成煉瓦造の方形の拝火神殿が立つ。東には「永遠の火」を守る方形の堂が、さらに東には水の女神アナーヒターの神殿とされる建物が並び、西に王の居所が置かれた。湖は全体の構成の要であり、矩形の囲いで区切られていた。北西の隅に残る大イーワーンは煉瓦の巨大なヴォールトで、サーサーン朝建築の特徴を示す。
イル・ハン朝の宮殿は既存の配置と軸線を踏まえ、湖を中心とする中庭の四方にイーワーンを置き、列柱廊でつないだ四イーワーン形式をとる。北のイーワーンの奥、かつての拝火神殿の位置には、ドームを戴く謁見の間が設けられた。西のイーワーンの両脇には八角形の部屋が並び、玉座の間や君主の居室として用いられた。壁面は上部を彩色スタッコで、腰壁を星形などの幾何学形をしたラスター彩やラージュヴァルディーナのタイルで飾り、龍や鳳凰など中国に由来する図像も取り入れている。南の八角室からは、ムカルナス天井の4分の1に当たる設計図を描いた石膏板が出土し、ムカルナスの作図法を伝える最古級の資料として知られる(テヘランのイラン国立博物館所蔵)。
アードゥル・グシュナスプは、サーサーン朝の三大聖火のうち神殿の遺構が確認された唯一のものである。方形の拝火堂、煉瓦のイーワーン、水を中心に据えた中庭という組み合わせは、のちのイランのモスクや宮殿の空間構成に影響を与えたと評価されている。イル・ハン朝の宮殿は、モンゴルの支配者が前イスラーム期の王権の聖地を選んで建てた点で、王朝の正統性の演出と、イランと東アジアの装飾文化の交流を示す。
遺構の多くは壁の下部や基礎を残すのみで、湧水の石灰分による地盤の上昇、地震、厳しい冬の凍結が劣化の要因となっている。世界遺産の範囲には、西約3kmの古い火山丘「ソロモンの牢獄」(ゼンダーネ・ソレイマーン)などが含まれ、遺跡内には出土品を展示する小さな博物館がある。