エスファハーンのジャーメ・モスク Jameh Mosque of Isfahan
イラン中部エスファハーンの旧市街にある会衆モスク。8世紀後半の創建以来、セルジューク朝の二つのドームと四イーワーン形式の中庭を核に千年以上増改築が重ねられ、イラン・イスラーム建築の変遷を一堂に示す。
§1 — 概要概要
エスファハーンのジャーメ・モスク(Jameh Mosque of Isfahan/ペルシア語 Masjid-e Jāmeh-ye Isfahān)は、金曜礼拝を行う町の中心的なモスクであり、「古いモスク(アティーク・モスク)」とも呼ばれる。8世紀後半の創建から20世紀末まで、同じ敷地で建設、再建、増築、修復が続けられた結果、アッバース朝からサファヴィー朝に至る各時代の要素が一つの建物のなかに層をなしている。周囲は旧市街とバザールの建物に埋め込まれ、はっきりした外観をほとんど持たない。2012年に世界遺産に登録された。
歴史
最初のモスクは771年ごろ、アッバース朝カリフのマンスールの治世に日干し煉瓦で建てられた。約52×90メートルの小規模なもので、1970年代の発掘で遺構が確認されている。840〜841年には約88×128メートルのモスクに建て替えられ、焼成煉瓦の柱が並ぶ多柱式の礼拝空間が中庭を囲んだ。10世紀後半のブワイフ朝期には中庭側に新たなアーケードが加えられ、入口の両脇に2本のミナレットが立てられた。後にイランで定型となる双塔の配置の、記録に残る最初の例とされる。
大改造はセルジューク朝のもとで行われた。エスファハーンが王朝の首都となった後、1086〜87年に宰相ニザーム・アル=ムルクがミフラーブ前の柱を取り払って大ドームの室を築き、翌1088〜89年には政敵タージ・アル=ムルクが北側にもう一つのドームを建てた。1121〜22年の火災の後、12世紀前半のうちに中庭の四辺中央に大きなイーワーンが設けられ、現在の四イーワーン形式が成立する。残る多柱室も、リブをもつ約200の小ヴォールトへと順次架け替えられた。
その後も各時代に手が加えられた。イル・ハン朝のウルジェイトゥは1310年、名書家ハイダルの手になるスタッコ彫りのミフラーブを備えた礼拝室を加え、中庭のアーケードを上下二層に分けた。14世紀後半にはムザッファル朝がマドラサを、15世紀には新たな礼拝室の増設や天井の架け替えが行われ、1475〜76年にはアク・コユンル朝のウズン・ハサンの寄進で南イーワーンの正面がタイルで覆われた。南イーワーン両脇の現在のミナレットは17世紀のサファヴィー朝期のもので、この時期には冬季用の礼拝室の拡張やタイル装飾の刷新も進んだ。
建築的特徴
平面の核は中庭(サハン)と、その四辺を占める4つのイーワーンである。最大の南イーワーンはキブラの方向にあり、幾段にも重なるムカルナスで飾られて、奥のドーム室へと視線を導く。四つのイーワーンはほぼ同じ時期に計画されたと考えられるが、後代にそれぞれ異なる装飾が加えられたため、今日では表情が大きく異なる。
南ドームは8本のリブをもち、太い柱で支えられる。完成時にはイスラーム世界で最大の組積造ドームだった。方形の室から円形のドームへ移る部分には、2つの四分球ドームの上に樽形ヴォールトを架けた新しい型のスキンチが用いられ、ムカルナスの初期の展開を示している。北ドームは規模こそ小さいが、交差するリブが五角形と五芒星の文様を描き、壁から天井まで各部材の縦の通りがそろえられて視線を上方へ運ぶ。中世イラン建築の傑作とされる。
多柱室の小ヴォールトは一つとして同じ意匠がなく、煉瓦の積み方そのもので幾何学文を生み出している。ウルジェイトゥのミフラーブは植物文を幾層にも深く彫り込んだ化粧漆喰の彫刻で、この時代のイスラーム彫刻美術の代表作とされる。
意義・現在
このモスクで成立した四イーワーン形式は、その後イランのモスクとマドラサの基本形となり、イスラーム世界の広い範囲に広まった。9世紀の多柱式から17世紀のタイル装飾まで、九百年以上にわたる構法と装飾の変化を一つの建物のなかで比較できることが、イラン・イスラーム建築史におけるこのモスクの価値を支えている。現在も金曜礼拝の場として使われ、南西に接するバザールとともに旧市街の中心をなしている。