レギスタン広場 Registan
ウズベキスタンの古都サマルカンドの中心広場。ティムール朝のウルグ・ベク・マドラサ(1417〜20年)に、17世紀のシェル・ドル、ティリャー・コリーの両マドラサが加わり、三方を大門で囲む。中央アジアのイスラーム建築を代表する都市空間である。
§1 — 概要概要
レギスタン広場(Registan / ウズベク語 Registon)は、ウズベキスタン中部の古都サマルカンドの中心に広がる広場である。名はペルシア語で「砂の場所」を意味し、中央アジアの都市の中心広場を指す一般的な呼び名でもあった。西にウルグ・ベク・マドラサ、東にシェル・ドル・マドラサ、北にティリャー・コリー・マドラサが立ち、三棟のマドラサ(イスラームの学院)がそれぞれ巨大な門を広場に向けて、南に開いたコの字形の空間をつくる。15世紀から17世紀にかけて段階的に形成された建築群で、2001年に「サマルカンド-文化交差路」の構成資産としてユネスコ世界遺産に登録された。
歴史
広場は古くから商業と布告の場であった。ティムール朝の君主で天文学者としても名高いウルグ・ベクは、1417年から1420年にかけて広場の西側にマドラサを建てた。ここでは天文学・数学・神学などが講じられ、ウルグ・ベク自身も教壇に立ったと伝えられる。設計者は、シャー・ルフに仕えた宮廷建築家ガヴァーム・アッディーン・シーラーズィーとするのが通説だが、別の史料は天文学者カーズィーザーデ・ルーミーの弟子カマールッディーン・ムハンディスの名を挙げており、確定していない。ウルグ・ベクは続いて広場の東にハーンカー(修道場)、北にキャラバンサライを建て、広場の三方が整った。
これら二棟は約200年を経て荒廃し、17世紀、ブハラ・ハン国のもとでサマルカンドを治めた太守ヤラングトゥシュ・バハードゥルが、その跡地に二つのマドラサを建てた。東のシェル・ドル・マドラサ(1619〜1636年)は建築家アブドゥル・ジャッバールの設計、装飾は工匠ムハンマド・アッバースによる。北のティリャー・コリー・マドラサ(1646〜1660年)は旧キャラバンサライの基礎と壁を一部利用して建てられ、学院であると同時に町の金曜モスクの役割も担った。
19世紀には地震で大きな被害を受け、ミナレットは傾き、タイルの多くが剥落した。1920年代から保存修復が始まり、1932年には技師ウラジーミル・シューホフらの計画によって、ウルグ・ベク・マドラサの北東のミナレットの傾きが矯正された。本格的な修復は1950〜60年代に進められ、建設当初は未完に終わっていたティリャー・コリーのモスクの外側ドームは、1970年代になって築かれた。
建築的特徴
三棟はいずれも、中庭の四方にイーワーンを開く四イーワーン形式の平面を基本とし、中庭を学生の居室が囲む。広場に面しては、矩形の枠で縁取られた高い門構えピシュタークを中央に据え、両翼を低く抑えて門の量感を際立たせる。
ウルグ・ベク・マドラサは約56×81メートルの長方形で、四隅に高さ約33メートルのミナレットを立て、中庭の四隅にはドームを戴く講義室を配した。正面の門を飾る幾何学文のモザイクは、色釉を施した煉瓦や陶片を組み合わせたもので、星形の文様は建立者の天文学への関心と結びつけて語られる。シェル・ドル・マドラサは広場を挟んでこの建物をほぼ鏡写しに繰り返すが、比例はやや異なり、門の脇に過大ともいえる畝のついたドームを載せる。門の上部には、背に太陽を負った猛獣が描かれ、生き物を表すことを避ける通例の強いマドラサ建築としては異例の図像となっている。ティリャー・コリー・マドラサは2層の長い正面を持ち、中庭の西側にドームのモスクを抱く。名は「金を施した」を意味し、モスク内部の壁と天井は金を多用した彩色で覆われている。
意義・現在
レギスタン広場の価値は、個々の建物の質に加えて、240年以上を隔てて建てられた三つの正面が一つの広場を構成するという都市的な構成にある。後の建設者は既存のマドラサと向き合う位置と形を選び、広場を舞台装置のようにまとめ上げた。中央アジアにおけるティムール朝建築とその継承を最もよく示す場所であり、現在、各マドラサは博物館や工芸品の店として公開され、広場は式典や催しの会場としても用いられている。