広島湾の島に鎮座する安芸国一宮。平清盛の造営で海上に張り出す社殿が整い、檜皮…
東京・九段坂上の神社。1869年に戊辰戦争の戦没者を祀る東京招魂社として創建され、1879年に改称した。宮大工の伊藤平左衛門(9世)による神明造の本殿(1872年)と入母屋造の拝殿(1901年)を中心とする近代の社殿群である。
§1 — 概要靖国神社は、東京都千代田区九段北の九段坂上に、東を正面として鎮座する神社である。1853年のペリー来航以降、国内外の戦争や事変で国家のために死亡したとされる軍人・軍属らを祭神とし、その数は神社の集計で約246万6千柱に上る。前身は1869年創建の東京招魂社で、1879年に現在の社名へ改められた。
境内には、明治期の宮大工が建てた本殿と拝殿を中心に、大正・昭和期の鳥居や神門、付属の宝物館である遊就館が参道に沿って並ぶ。近代国家が戦没者を祀るために新たに設けた神社の社殿として、明治以降の神社建築の一つの典型を示す。同時に、戦後は政教分離や戦争責任をめぐる議論の焦点ともなってきた。
戊辰戦争の後、大村益次郎の献策を受け、明治天皇の勅許のもとで1869年に九段坂上の現在地に招魂社を設けることが決まった。同年、新政府軍側の戦没者3,588柱を祀る祭儀が行われ、東京招魂社が創建された。創建時の社殿は仮のもので、本殿が完成したのは1872年である。設計は、尾張藩作事方の家系を継ぐ棟梁、伊藤平左衛門(9世)が担った。

1879年に靖国神社と改称し、別格官幣社に列せられた。一般の神社とは異なり、運営は内務省と陸軍省・海軍省の共管で、財政を担う陸軍省が実質的な主導権を握っていた。1882年には、イタリア人のお雇い教師カペレッティの設計による初代の遊就館が開館した。1887年に大阪砲兵工廠で鋳造された青銅製の第二鳥居が建ち、1901年には拝殿が竣工した。
大正から昭和初期にかけて境内の整備が続いた。1921年には第一鳥居(大鳥居)が建てられ、関東大震災で損壊した遊就館は1932年に伊東忠太らの設計で再建された。1934年には伊東の設計による神門が完成し、境内の構成はおおむねこの時期に整った。
敗戦後の1946年、靖国神社は国家の管理を離れ、単立の宗教法人となった。第一鳥居は傷みのため1943年に撤去されていたが、1974年に耐候性鋼で再建された。本殿は1986年から1989年にかけて解体修理を受けている。1978年には、極東国際軍事裁判でA級戦犯とされた14人が合祀され、翌1979年にその事実が報じられた。
本殿は、桁行3間・梁間6間の大規模な神明造で、正面に1間の向拝を付ける。屋根は銅板葺の切妻屋根で、棟に千木と鰹木を載せる。伊勢神宮に代表される直線的で簡素な神明造の形式を、近代の大きな社殿の規模に合わせて用いたものである。本殿の両脇からは廻廊が延びて前方へ折れ、拝殿の両側面に取り付いて、本殿前の庭を囲む。
拝殿は、桁行7間・梁間5間の入母屋造・平入で、屋根は銅板葺とする。正面には3間の向拝を張り出し、その軒に唐破風を構える。白木の直線で構成された奥の本殿に対し、手前の拝殿は曲線の破風で正面性を強めており、この対比が社殿の構成の骨格となっている。
参道には東から順に、第一鳥居、第二鳥居、神門、中門鳥居が並ぶ。第一鳥居は柱の高さ約25メートル、笠木の長さ約34メートルの鋼製で、表面の色は塗装ではなく耐候性鋼の錆による。第二鳥居は1887年鋳造の青銅製で、境内に現存する鳥居のうち最も古い。神門は高さ約6メートル、檜造・切妻造・銅板葺の三間三戸の門で、中央の扉に直径1.5メートルの16弁の菊花紋章を付ける。

遊就館は、伊東忠太らが設計した1932年の建物を本館とし、2002年には新館が増築された。
靖国神社の社殿は、江戸時代以来の宮大工の技術が、明治国家の新しい祭祀施設に注がれた例である。本殿と拝殿を手がけた伊藤平左衛門(9世)は、同じ時期に東本願寺の御影堂の再建にも加わり、近代の大規模な木造宗教建築を担った。一方、遊就館と神門に関わった伊東忠太は、日本建築史学を開いた研究者でもある。境内には、明治の棟梁と昭和の建築家という二つの世代の仕事が並んでいる。
戦後の靖国神社は、戦没者を追悼する場であると同時に、国家神道の中心であった経緯とA級戦犯の合祀をめぐって、国内外で議論の対象となってきた。首相や閣僚の参拝は、国内では憲法の政教分離原則に反するかを争う訴訟を、対外的には中国・韓国との外交問題を引き起こしてきた。昭和天皇は戦後1975年までに8回参拝したが、それ以降、天皇の参拝は行われていない。
境内のソメイヨシノのうち3本は、気象庁が東京の桜の開花を判断する標本木に指定されている。