インド西部、ワーグラー川の渓谷の岩壁を穿った30ほどの仏教石窟。前2世紀と5世紀…
京都・北山に立つ臨済宗相国寺派の禅寺で、通称は金閣寺。足利義満が1397年に営んだ北山殿を前身とし、寝殿造・和様・禅宗様を層ごとに重ねた舎利殿「金閣」は北山文化を象徴する。現在の金閣は1950年の放火による焼失後、1955年に再建された。
§1 — 概要鹿苑寺は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院で、相国寺の境外塔頭にあたる。正式名称は北山鹿苑禅寺。境内の舎利殿が金箔で覆われていることから、一般には金閣寺の名で知られる。室町幕府3代将軍足利義満の山荘を前身とし、鏡湖池のほとりに立つ金閣は、公家・武家・禅宗という当時の文化の系譜を一棟にまとめた、室町時代前期の北山文化を代表する建築である。1994年に世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産となった。
この地には鎌倉時代、公卿の西園寺公経が西園寺と山荘「北山第」を営んでいた。1397年(応永4年)、義満はこれを譲り受けて改築と新築を重ね、北山殿と称した。将軍職を子の義持に譲った後も義満はここで政務を執り、山荘は御所に比肩する規模を備えた政治の中枢となった。舎利殿(金閣)は1399年ごろに完成したと推定されている。
1408年に義満が没した後、山荘は次第に縮小され、舎利殿を除く建物の多くが解体されて他の寺院へ移された。1420年、義満の遺言に従って禅寺に改められる。寺名は義満の法号「鹿苑院殿」に由来し、夢窓疎石を名目上の開山とする。応仁の乱では境内の多くが焼けたが金閣は難を逃れ、江戸時代に主要な堂宇が再建された。近代に入ると、金閣は1897年に古社寺保存法の特別保護建造物、1929年に国宝(旧国宝)に指定されている。
1950年7月2日、学僧の放火によって金閣は全焼し、安置されていた足利義満像なども失われた。この事件は三島由紀夫の小説『金閣寺』の題材となった。国宝指定は解除され、再建工事が1952年に始まる。明治の解体修理(1904〜06年)の際に作成された実測図や写真、古文書などを手がかりに、1955年に旧状に倣った建物が完成した。1986〜87年の「昭和大修復」では漆が塗り直され、通常の約5倍の厚さをもつ金箔で全面が張り替えられている。
金閣は宝形造の屋根を架けた木造三層の楼閣で、屋根は杮葺、頂部に銅製の鳳凰を据える。初層と二層の間には屋根を張り出さないため、外観は二重、内部は三階となる。高さは約12.5メートルである。
最大の特色は、層ごとに異なる建築形式を積み重ねた点にある。初層「法水院」は、蔀戸を用いた平安貴族の住宅、すなわち寝殿造の趣をもち、金箔を張らない素木仕上げとする。二層「潮音洞」は武家造とも説明され、舞良戸や格子窓を用いた和様の仏堂風に整えられ、外面を金箔で覆う。最上層の「究竟頂」は方三間の小室で、桟唐戸と花頭窓を備えた禅宗様の仏殿風とし、内外とも金箔を張って仏舎利を安置する。住まいから仏堂へ、在来の和様から宋風の禅宗様へと、下から上へ性格が移り変わる構成が、金閣の意匠の核心である。
再建に際して二層まで全面を金箔張りとしたのは、明治の修理で取り外され、別に保管されて焼失を免れた旧二層の部材に金箔が押されていたためである。ただし、風雨にさらされやすいその部材にだけ箔が残るのは不自然として、創建時の二層には金箔がなかったとする説もある。
建物は鏡湖池のほとりに南面して立ち、池には大小の島や名石が配される。池をめぐりながら水面に映る姿を眺める回遊式庭園は、国の特別史跡・特別名勝に指定されている。
金閣は、義満の孫にあたる足利義政が東山山荘(現在の慈照寺)に観音殿、いわゆる銀閣を建てる際の手本となり、楼閣建築の系譜に明確な足跡を残した。焼失と再建をめぐる経緯は、木造建築の保存と復元のあり方を考える事例としても参照される。現在は相国寺派の寺院として拝観に供され、境内には金森宗和好みと伝わる茶室・夕佳亭や、現存する境内最古の建物とされる不動堂なども残る。