特集 — FEATURE
建物はどう失われるか——失われた21の建築と建たなかった塔 前226–2025
How Buildings Are Lost: Twenty-One Vanished Buildings and an Unbuilt Tower, 226 BC–2025
名築が収録する公開済みの建物のうち、すでに失われたものは21件ある。前3世紀に地震で倒れたロドス島の巨像から、2025年に予定どおり解体されたパリの仮設展示館まで、失われた時期は二千年以上にわたる。ほかに、構想されたまま建たなかった塔と、実在を確かめられない伝説の城が1件ずつある。
本稿はこれらを失われ方で分け、並べて見える傾向を読む。地震と失火、戦争と革命、役目を終えての解体、はじめから仮設であったもの、そして建たなかったものである。古いものほど災害と戦火で失われ、新しいものほど持ち主の判断で取り壊されていること、そして失われた後に何が残されたかに目を向ける。
21件を失われ方で分ける
名築で「現存しない」と登録されている21件を、失われた主な原因で分けると次のようになる。地震が3件(ロドス島の巨像、アレクサンドリアの大灯台、ハイチの国立宮殿)、戦争・革命・意図的な破壊が9件(エルサレム神殿、アントニア要塞、バスティーユ牢獄、サン=クルー城、テュイルリー宮殿、ナポリのスタディオ・パルテノペオ、マルタのロイヤル・オペラ・ハウス、ベルリンの総統地下壕、バーミヤンの大仏)、失火が2件(ホワイトホール宮殿、水晶宮)、役目を終えての解体が6件(旧ウェンブリー・スタジアムをはじめとする五つのサッカー場と、中銀カプセルタワービル)、はじめから仮設として建てられたものが1件(グラン・パレ・エフェメール)である。サン=クルー城やテュイルリー宮殿のように、戦火で焼けた後に残骸を取り壊したものは、焼けた原因の側に数えた。
失われた時期で並べ直すと、別の傾向が見えてくる。古代から18世紀までに失われた6件は、いずれも地震、戦争、革命、失火によるものである。これに対し、21件のうち7件は21世紀に入ってから失われており、その7件のうち5件は、持ち主が建て替えや役目の終了を理由に取り壊した。災害や暴力によるのは、2001年のバーミヤンと2010年の地震で崩れたハイチの国立宮殿の2件だけである。名築が収録する例に限れば、建物を失わせる力は、時代が下るにつれて外からの破壊から持ち主の選択へと移ってきたとも読める。
なお、名築には、破壊されながら一部が廃墟として残る建物も「廃墟」として別に登録されている。本稿の表には入れないが、失われた後の扱いを比べるために、そのいくつかにも触れる。
地震と失火:建て直されなかったもの
古代の七不思議のうち2件は、地震で失われた。ロドス島の巨像は、リンドスのカレスが前280年頃に完成させた太陽神ヘリオスの青銅像で、高さ約33メートルは古代世界で最も高い像であった。前226年頃の地震で膝のあたりから折れて倒れると、エジプト王プトレマイオス3世が再建の費用を申し出たが、ロドスの人々は神託を恐れてこれを受けなかった。アレクサンドリアの大灯台は、クニドスのソストラトスの設計で前3世紀に築かれ、956年から1303年にかけての度重なる地震でついに崩れ落ちた。15世紀末、その跡地には残された石材を用いてカーイトベーイの要塞が築かれている。七不思議のうち最後まで姿をとどめたマウソロス霊廟も、中世の地震で崩れ、浮彫や人物像は大英博物館に収められた。
20世紀の地震で失われたのが、ポルトープランスの国立宮殿である。ジョルジュ・ボーザンの設計で1914年に着工し、政変と米国の占領を挟んで1920年に完成した白亜の大統領官邸は、2010年1月の地震で中央のドームが崩れ落ち、残った瓦礫は2012年に撤去された。2017年に再建が表明され設計競技も行われたが、本格的な工事には至っていない。

失火で失われた2件も、建て直されなかった。ロンドンのホワイトホール宮殿は、1530年にヘンリー8世が王の居所として拡張し、最盛期には1500室を超えた。1698年の火災で宮殿のほぼすべてが焼け、イニゴー・ジョーンズのバンケティング・ハウス(1622年)だけが残った。ウィリアム3世とメアリー2世はすでにケンジントンの宮殿を好んで住んでおり、王宮が同じ場所に戻ることはなかった。宮殿の名は、いまは官庁街を貫く通りの名として残る。
ジョゼフ・パクストンの水晶宮は、1851年の万国博覧会のためにハイド・パークに建てられ、閉幕後に解体されて1854年に郊外のシデナムへ移築された。それから80年あまり後の1936年11月30日の夜に出た火が、鉄とガラスの建物を焼き尽くした。跡地を囲む一帯は、いまもクリスタル・パレスの名で呼ばれている。

名築が収録する建物には、火災の後に建て直されたものもある。1834年に焼けたウェストミンスター宮殿は、焼け残ったウェストミンスター・ホールを取り込んで1840年から新たに建てられた。1950年の放火で焼けた鹿苑寺の金閣は1955年に再建され、2019年に尖塔と屋根を失ったノートルダム大聖堂は、元のとおりに再建されて2024年に再開した。これらはいずれも、議会、寺院、大聖堂として建物の役目がなお続いていた点で、再建されなかったホワイトホール宮殿や水晶宮と異なる。
戦争と革命:権力の器が壊されるとき
戦争・革命・意図的な破壊による9件のうち、もっとも古いのは70年のエルサレムである。第一次ユダヤ戦争でエルサレムを陥落させたローマ軍は、ヘロデ大王が神殿を見おろすように築いたアントニア要塞を基礎まで取り壊し、ヘロデが大改築した第二神殿を焼いた。神殿の丘(ハラム・シェリーフ)を支えた西側の擁壁は残り、嘆きの壁としていまに伝わる。
近代のパリでは、王権の建物が革命と内戦のたびに失われた。14世紀にパリの東の守りとして築かれ、のちに牢獄となったバスティーユは、1789年7月14日の襲撃の直後から解体が始まり、1806年に解体を終えた。解体のあいだ、その石材で作った要塞のミニチュアが土産物として売られている。
1870年10月13日、普仏戦争のさなかの砲撃で、パリ西郊のサン=クルー城が炎上した。外壁は修復できる状態で残っていたが、第三共和政は財政や治安に加え、王政・帝政の記憶を消し去る意図もあって、1891年にこれを取り壊した。翌1871年には、1564年にフィリベール・ド・ロルムが起工したテュイルリー宮殿が、パリ・コミューンの戦いのさなかに放火されて全焼し、廃墟は1883年に撤去された。宮殿が閉じていたルーヴルの西側には、こうして開けた眺めが生まれた。


王や皇帝の居所であった宮殿は、権力の器であったがゆえに、それを否定する側にとって残す理由が乏しかったとも読める。建物のもつ意味が壊す理由そのものとなった例は、20世紀にもある。ベルリンの総統地下壕は、1944年に旧帝国宰相官邸の庭園の地下に築かれ、翌年4月にヒトラーが命を絶った場所である。戦後、官邸はソ連軍に取り壊され、地下壕の大半も破壊または封鎖された。跡地は巡礼の地となるのを避けるために長く荒れ地のまま置かれ、2006年にようやく小さな説明板が立った。サン=クルー城が記憶を消すために取り壊されたのに対し、ここでは記憶の場をつくらないために、何も建てないことが選ばれた。
バーミヤンの二体の大仏は、6世紀後半から7世紀前半に断崖に刻まれ、1221年のモンゴル軍の侵攻も、17世紀にムガル皇帝が命じたとされる砲撃も越えて千年以上立ち続けた。2001年3月、ターリバーンの最高指導者ムハンマド・オマルの命令によって、両像は爆薬などで組織的に破壊された。2003年、渓谷一帯は世界遺産に登録されると同時に危機遺産となり、崖には像の抜け落ちた龕だけが残っている。

戦災のあと:消す、残す、建て直す
第二次世界大戦の空襲は、1942年に2件を失わせた。技師アメデオ・ダルボーラの設計で1930年に開場し、1934年のワールドカップにも使われたナポリのスタディオ・パルテノペオは、空襲で破壊され、戦後の復興のなかで残骸も撤去されて痕跡をとどめていない。マルタの首都バレッタのロイヤル・オペラ・ハウスは、ロンドンのコヴェント・ガーデン王立劇場を設計したエドワード・ミドルトン・バリーの作で1866年に開場し、1942年4月7日の爆撃で外周の柱列とテラスを残して失われた。残った構造も1950年代後半に保安上の理由から撤去され、再建の計画は幾度も立てられながら実現しなかった。
名築が収録する戦災の建物を見渡すと、その後の扱いには少なくとも三つの道がある。一つは、ナポリの競技場のように跡形なく消えることである。二つ目は、破壊の跡を記憶の場として残すことで、1943年の空襲で身廊を失ったハンブルクの聖ニコライ教会は高さ147メートルの尖塔と地下聖堂を慰霊の遺構として保ち、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム教会は焼け残った塔の傍らに1960年代の新しい教会を並べた。三つ目は、元の姿に建て直すことである。1944年にナチス・ドイツが計画的に爆破したワルシャワ王宮は、市民の寄付で1971年から1984年にかけて17世紀の姿に再建され、1993年の砲撃で崩落したモスタルのスタリ・モストは、2004年に旧来の技法と材料で架け直された。
バレッタの劇場は、このいずれとも違う道をとった。レンゾ・ピアノが遺構を生かす設計を委ねられ、2013年に屋外劇場ピャッツァ・テアトル・リヤルとして、劇場はふたたび公演の場となった。失われた建物そのものは戻らないまま、残された柱列が新しい劇場の一部となっている。
役目を終えて:持ち主が選んだ解体
21世紀に失われた7件のうち5件は、持ち主が自ら取り壊した。そのうち3件はサッカー場である。1923年に開場した旧ウェンブリー・スタジアムは2002年から2003年にかけて解体され、跡地に新しいウェンブリー・スタジアムが建った。トッテナム・ホットスパーが118年使ったホワイト・ハート・レーンは2017年に取り壊され、その跡にトッテナム・ホットスパー・スタジアムが2019年に開いた。マドリードのエスタディオ・ビセンテ・カルデロンは、スタンドの下を高速道路が貫く珍しい構造で知られたが、アトレティコ・マドリードが2017年にメトロポリタンスタジアムへ移ると、2019年から解体された。
20世紀末にはすでに、アーチボルド・リーチがスタンドを設計したイングランド北東部の2件が同じ道をたどっている。サンダーランドのローカー・パークと、ミドルズブラのエアーサム・パークで、いずれもクラブの移転にともない1997年に解体され、跡地は住宅地となった。ローカー・パークの跡では街路の名にかつての各スタンドの名が受け継がれ、エアーサム・パークの跡にはセンターサークルやペナルティスポットの位置を示す銅製の彫刻が据えられている。サッカー場の解体は、多くの場合、クラブが新しい本拠へ移ることと一組であり、失われたのは建物であってクラブの歴史ではないという了解が、こうした記憶の残し方にうかがえる。
残る1件は、2022年に解体された銀座の中銀カプセルタワービルである。黒川紀章は、二本のコンクリートの塔に工場で作った140個のカプセルを取り付け、劣化したカプセルだけを取り替えるというメタボリズムの構想を1972年に実現した。しかしカプセルは一度も交換されないまま老朽化し、保存運動もむなしく2022年4月に解体が始まった。取り外された一部のカプセルは保存され、美術館などに収められている。

交換を前提に設計されながら一度も交換されなかった中銀カプセルタワービルの傍らに、20年ごとに社殿を隣の敷地へ建て替える式年遷宮を690年から続けてきた伊勢神宮を置いてみると、建物の更新が、設計の考え方よりも、それを続けさせる建物の外の仕組みにかかっていることがうかがえる。
はじめから仮設、建たなかった塔
21件のうち、失われることが最初から決まっていたのは、パリのシャン・ド・マルスに2021年に建てられたグラン・パレ・エフェメールだけである。改修中のグラン・パレの代わりとしてジャン=ミシェル・ヴィルモットが設計し、集成材のアーチ約44本を組み合わせた架構を、設計から竣工まで9か月で建てた。2024年のパリ五輪では柔道とレスリングの会場を務め、グラン・パレの再開に合わせて2025年に予定どおり解体された。部材は別の場所で組み立て直して使うことが企図されている。
仮設として生まれた建物は、ほかにもある。水晶宮は博覧会の会場として建てられ、解体と移築を経て、85年後に火災で失われた。旧ウェンブリー・スタジアムも、1924年からの大英帝国博覧会の中核施設として建てられ、当初は閉幕後に取り壊される予定であったが、組織委員会の委員長の提案で残され、80年にわたってイングランドのサッカーの中心となった。仮設の予定が延び、予定外の理由で失われた2件と、予定どおりに消えた1件である。
建たなかった2件のうち、第三インターナショナル記念塔は、ウラジーミル・タトリンが1919年から20年にかけてペトログラードに構想したコミンテルンの本部である。傾いた軸を二重の鉄骨のらせんが巻き、内部に吊った四つのガラスの立体がそれぞれ1年、1か月、1日などの周期で回るという、高さ約400メートルの塔であった。内戦と物資の窮乏のなかで計画は紙上にとどまり、1920年に作られた木材と針金の模型と図面だけが残った。建たなかったがゆえに壊されることもなく、模型の写真と再制作を通じてロシア構成主義の象徴となった。
もう1件のキャメロットは、アーサー王の宮廷が置かれたとされる伝説の城と都で、12世紀フランスの騎士物語に初めて名が現れる。所在地にはウィンチェスターなど諸説があるが、建物として実在したことは確かめられていない。失われた建築というより、はじめから物語の中にだけ建っていた建築である。
むすび
名築が収録する失われた21件を並べると、古代から18世紀までの喪失はすべて地震、戦争、革命、失火によるのに対し、21世紀の7件のうち5件は、持ち主が建て替えや役目の終了を理由に取り壊したものであった。建物を失わせる力は、外から加わる破壊から、持ち主の選択へと比重を移してきたとも読める。
失われた後に残るものも、建物ごとに違う。大灯台の石材は要塞に積まれ、ホワイトホール宮殿は一棟と通りの名を、水晶宮は地名を残した。バーミヤンには空の龕が、ベルリンには説明板が、サンダーランドとミドルズブラには街路の名と銅の目印が、銀座の塔からは取り外されたカプセルが残った。建たなかったタトリンの塔は、模型のかたちでいまも各地の美術館に立っている。各建物の詳細は、下の表から個別のページで確かめられる。















