特集 — FEATURE
1913年の世界——大戦前夜に完成した10の建築
The World in 1913: Ten Buildings Completed on the Eve of the Great War
1914年夏に第一次世界大戦が始まる、その前年に完成した建物は、名築が収録する公開済みの建物のうち10件ある。ニューヨークの駅からクロンシュタットの海軍聖堂まで、当時の七つの国家にまたがり、うち6件は大戦の後に崩壊したドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシアの三帝国の中にあった。
本稿はこの10件を1913年という一年で輪切りにし、並べて見える傾向を読む。百年前の戦勝をどう記念したか、帝都ウィーンがどの様式を選んだか、それぞれがどの過去を範としたか、そして完成の翌年からの戦争と国境の変化が建物に何をもたらしたかである。
1913年の地図に置く
1913年に竣工・開業・献堂した10件を当時の国境で数えると、七つの国家に分かれる。ドイツ帝国に2件(ライプツィヒの諸国民の戦いの記念碑、ブレスラウの百周年記念ホール)、オーストリア=ハンガリーに3件(ウィーンのホーフブルク宮殿とウィーン技術博物館、プレスブルクの聖エリザベス教会)、ロシア帝国に1件(クロンシュタット海軍大聖堂)がある。残る4件は、米国のグランド・セントラル駅、英国のアーセナル・スタジアム、オランダの平和宮、スペインのサンタ・エウラリア大聖堂である。現在の国名で数え直すと9か国になる。ブレスラウはポーランドのヴロツワフに、プレスブルクはスロヴァキアの首都ブラチスラヴァになった。記事末の表の国名は現在のものである。
日付の分かるものを追うと、一年の流れが見える。2月2日にグランド・セントラル駅が開業し、5月20日に百周年記念ホールが開館した。6月10日にはクロンシュタットの大聖堂がニコライ2世一家の臨席で成聖され、8月28日に平和宮が開館する。9月6日にアーセナルが新しい競技場を本拠として使い始め、10月18日に諸国民の戦いの記念碑の除幕式が行われた。
様式で大まかに分けると、10件のうち6件は名のある過去の様式を範としている。ビザンティン(クロンシュタット)、ゴシック(バルセロナ)、ルネサンス(ハーグ)、パリのボザール(ニューヨーク)、そしてウィーンの2件の歴史主義である。ライプツィヒとプレスブルクの2件は、特定の時代の様式を名指しせず、国民や民族の記念を新しい造形で表そうとした。残る2件、ブレスラウのホールとハイバリーの競技場は、構造と実用をそのまま見せる。1913年の建築の多くは、まだ過去の衣装をまとっていたことになる。
百年前の戦勝を記念する:ライプツィヒとブレスラウ
1913年は、ナポレオンに対する解放戦争から百年にあたる。10件のうち2件は、その記念として同じ年に完成した。
諸国民の戦いの記念碑は、1813年10月にナポレオン軍が敗れたライプツィヒの戦場に立つ。愛国者同盟が募金と宝くじで資金を集め、足りない分はライプツィヒ市が補った。ブルーノ・シュミッツの設計で1898年に着工し、15年をかけて高さ91メートルの記念碑を築き、戦いから百年後の1913年10月18日に除幕式を迎えた。約10万人の参列者の中には、皇帝ヴィルヘルム2世とドイツ諸邦の君主が並んだ。
百周年記念ホールが記念するのは、同じ年の3月の出来事である。1813年3月17日、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は滞在先のブレスラウで布告を出し、国民に対ナポレオン戦争への参加を呼びかけた。百年後のブレスラウ市は国の財政支援を得られないまま独力で建設費を負い、マックス・ベルクの設計したホールを1913年5月20日に開いた。
二つの建物は、ともに当時新しい素材であったコンクリートで建てられた。ライプツィヒの記念碑は躯体のおよそ9割をコンクリートとし、その外側を2万6500個の花崗岩の切石で覆った。これほどの規模の構造物にコンクリートを使ったのは初めてとされるが、外から見えるのは石の量塊だけである。
ブレスラウのホールは逆に、鉄筋コンクリートの骨組みを隠さない。直径約65メートルのドームは放射状のリブで組まれ、組積造のパンテオンの円蓋を径で上回った。四つの大アーチが荷重を受け、その内側に柱のない大空間が開く。


同じ戦争の百年を同じ年に記念し、同じ系統の素材を使いながら、一方は石の塊として戦場に向き合い、他方は多くの人を一つの屋根の下に集める器となった。新しい素材を隠すか見せるかで、記念のかたちが分かれたとも読める。
帝都ウィーンの選択:皇位継承者が退けた近代
ウィーンでは同じ年に2件が完成した。どちらの経緯にも、建築家エミール・フォン・フェルスターと、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公の名が現れる。
ホーフブルク宮殿の新王宮(ノイエ・ブルク)は、ゴットフリート・ゼンパーとカール・フォン・ハーゼナウアーが構想した皇帝広場(カイザーフォーラム)の一翼として、1881年に着工した。1894年にハーゼナウアーが没すると工事の指揮者は次々に替わり、1897年から99年まではフェルスターもその任にあった。1899年からはフリードリヒ・オーマンが芸術面の指揮を執ったが、1906年に皇帝フランツ・ヨーゼフが甥の大公を王宮工事の保護者に任じると、翌年、指揮は大公の信任の厚いルートヴィヒ・バウマンに移った。新王宮は1913年に完成したが、計画された三つの翼のうち建ったのはこの一つだけで、皇帝広場は未完のまま残った。13世紀に始まる王宮の拡張は、この翼で打ち止めとなった。

ウィーン技術博物館は、1908年に皇帝の在位60年を機に計画された。初期設計をまとめたフェルスターは1909年に急逝する。続く設計競技ではオットー・ワーグナーが選ばれたものの、近代芸術を嫌った大公がこれを覆し、フェルスターの事務所にいたハンス・シュナイダーの案を採らせた。建物は歴史主義の姿で1913年に完成した。
二つの完成に共通するのは、帝都の顔となる建物の様式を宮廷が決めたことである。ワーグナーはウィーン分離派を後押しし、必要に従う近代の建築を説いていたが、1913年のウィーンが国家の建物に選んだのは歴史主義であった。その大公は翌1914年6月28日にサライェヴォで暗殺され、ひと月後に大戦が始まる。

同じ二重君主国の中でも、ハンガリー王国の側では事情が違った。プレスブルクの聖エリザベス教会は、レヒネル・エデンの設計で1908年から13年にかけて建てられた。ハンガリーの民族的な意匠と東方的なモチーフを、ジョルナイ社の色釉タイルやマヨリカの陶板で表し、外壁から屋根までを淡い青で包む。ウィーンの宮廷が歴史主義を選んだ同じ年に、王国の北の縁では、過去の様式ではなく民族の装飾で国を語る教会が献堂された。
どの過去を範としたか:ビザンティン、ゴシック、フランドル、パリ
過去の様式を範とした建物も、どの過去を選ぶかはそれぞれ異なる。
クロンシュタットの大聖堂は、ロシア帝国海軍の中央聖堂として建てられ、アヤソフィアを範とした。ヴァシーリー・コシャコフは直径約27メートルの扁平なドームを架け、荷重をペンデンティヴで四隅へ流すビザンティンの構成を写している。正教をビザンティン帝国から受け継いだという自己像を、帝国の軍港に示したものとも読める。その一方で、堂内には5000個の電球による照明と集中暖房が備えられた。建設費の一部は、バルト艦隊の将兵が俸給の400分の1ずつを納めて賄った。
バルセロナのサンタ・エウラリア大聖堂は、1298年に着工したゴシックの聖堂である。正面は長く未完のままであったが、19世紀末に実業家ジロナの寄進を得て、15世紀の構想図をもとにネオ・ゴシックの正面が1887年から90年に建てられ、中央の尖塔が1913年に完成した。ここで借りられた過去は、自分たちの中世の設計である。
ハーグの平和宮は、1899年の第一回ハーグ平和会議で生まれた常設仲裁裁判所のために、アンドリュー・カーネギーの寄付で建てられた。設計競技で選ばれたルイ=マリ・コルドニエは、北フランスで市庁舎を数多く手がけた建築家であり、赤煉瓦と石の外観はフランドルの市庁舎を思わせる。内部には各国から贈られた建材や工芸品が集められた。国家間の紛争を法で裁くという新しい制度が、都市の自治を担ってきた市庁舎の姿を借りて表されたとも読める。
グランド・セントラル駅では、衣装と中身の隔たりがもっとも大きい。リード・アンド・ステムは、電化した線路を地下に二層に重ねる全体計画を立て、線路の上に生じた地表は「空中権」の手法で街区として開発された。その上に、パリのエコール・デ・ボザールに学んだホイットニー・ウォーレンを擁するウォーレン・アンド・ウェットモアが、星座を描いたヴォールト天井の大コンコースと、神話群像を掲げる正面を載せた。最新の鉄道技術を、ボザール様式の比例と装飾が包んでいる。


過去の衣装をまとわなかったのは、ブレスラウのホールとハイバリーの競技場である。アーセナルは1913年に南東ロンドンのプラムステッドからハイバリーへ本拠を移し、英国各地の競技場を手がけていた技師アーチボルド・リーチが新しい競技場を設計した。サッカー場は、範とすべき過去の様式をもたない新しい種類の建物であった。ハイバリーがアール・デコのスタンドで知られるようになるのは、1930年代の改築からである。
完成の翌年から:戦争と国境が変えたもの
10件の多くは、完成から1年と経たずに戦争の時代に入った。
ウィーン技術博物館の開館は戦争のために遅れ、1918年5月6日にようやく扉を開いた。同じ年の秋に帝政は終わり、ホーフブルクは皇帝の居城としての役目を失う。1946年からは、共和国の大統領官邸が置かれている。
クロンシュタットの大聖堂は、成聖から16年後の1929年に閉鎖され、映画館や海軍博物館に転用された。再び成聖されたのは、完成からちょうど百年後の2013年である。
国境も動いた。プレスブルクは1919年にチェコスロヴァキアの都市ブラチスラヴァとなり、ブレスラウは第二次世界大戦の後にポーランドのヴロツワフとなった。プロイセンの記念に建てられた百周年記念ホールは、戦後しばらく「人民ホール」と呼ばれた。ライプツィヒの記念碑には、東ドイツの時代に、解放戦争を民衆の闘いとして読み替える解釈が重ねられた。
平和宮は、開館から1年足らずで大戦が始まり、仲裁の殿堂が戦争を止める場とはならなかった。それでも建物は役目を保ち、第二次世界大戦後の1946年からは国際連合の国際司法裁判所が置かれている。
三帝国の外にあった3件は、それぞれの用途を長く保った。グランド・セントラル駅は1960年代に超高層ビルへの建て替え計画にさらされたが、1978年の合衆国最高裁の判決で守られた。ハイバリーは2006年までアーセナルの本拠であり続け、その後は集合住宅に改められている。
むすび
1913年の10件を並べると、多くが過去のいずれかを範とし、その選び方に国や都市の自己像が映っている。ウィーンでは宮廷が歴史主義を選び、ハンガリーの建築家は民族の装飾を、ロシアの海軍はビザンティンを、バルセロナは自らの中世を、ニューヨークはパリの学院の作法を選んだ。同じ年に、ライプツィヒの記念碑は新しいコンクリートを石で覆い、ブレスラウのホールは同じ素材の骨組みをそのまま見せた。
大戦の後、これらの建物の多くは、それを建てた国家より長く生きることになった。ホーフブルクは大統領官邸に、平和宮は国際司法裁判所に、ブレスラウのホールはヴロツワフの催しの会場になっている。各建物の詳細は、下の表から個別のページで確かめられる。






