特集 — FEATURE
地下鉄の駅を建築として見る——ロンドンとモスクワ 1926–2010
Seeing Metro Stations as Architecture: London and Moscow, 1926–2010
名築が収録する公開済みの建物のうち、ロンドン地下鉄の駅は9件、モスクワ地下鉄の駅は35件ある。ロンドンの7件はチャールズ・ホールデンが1926年から1947年にかけて設計した駅で、モスクワの35件は戦時下の1943年から2010年までに開業した。本稿はこのうち16駅を掲載建物表に挙げ、ほかの駅とあわせて読む。
並べて見えるのは、二つの都市が建築を置いた場所の違いである。ロンドンは地上の駅舎を郊外の目印とし、モスクワは地下のホールを宮殿として飾った。両者はともに同じ型を繰り返したが、その目的は異なる。モスクワでは装飾が1955年の号令で退き、1970年代に駅名の主題として戻ってくる。そして二つの都市は、ロンドン東部のガンツ・ヒル駅で一度だけ交わる。
前史:駅舎の顔を揃える
ロンドンの地下鉄は、地上の駅舎に揃いの顔を与えるところから建築の歴史を始めている。エレファント&キャッスル駅は、1890年に世界初の深層電気チューブ鉄道の駅として開業した。1906年に加わったベイカールー線の駅舎はレスリー・グリーンの設計で、鉄骨の骨組みにオックスブラッド色のファイアンスを張り、二階に半円アーチの窓を並べる。網全体に繰り返された「ハウス・スタイル」の典型であり、平屋根は上に別の建物を載せるためのものだった。駅は街路に面した一棟の建物として扱われ、その外観は鉄道会社の看板を兼ねたとも読める。
モスクワの地下鉄は1935年に開業した。初期の駅は、資本主義国の手狭で画一的な地下鉄と差をつけ、利用者に生きる喜びを感じさせる宮殿として設計されたとされる。名築が収録するモスクワの駅は1943年開業のものが最も古く、1930年代の駅は含まない。それでも収録例を並べると、両都市の出発点の違いは読み取れる。ロンドンでは駅の建築は地上の外観にあり、モスクワでは地下の内部にある。
ロンドン:郊外に建つ箱
チャールズ・ホールデンが地下鉄の駅を初めてまとめて手がけたのは、ノーザン線のモーデン延伸である。1926年12月に開業したバラム駅は、狭い敷地に白いポートランド・ストーンの駅舎を建て、二層分の高さのガラス面から切符売場へ光を入れた。正面には地下鉄の円形標識を大きく掲げている。
1930年の夏、ホールデンは地下鉄の経営者フランク・ピックとともに、ドイツ、オランダ、デンマーク、スウェーデンの新しい建築を見て回った。翌1931年に完成したサドベリー・タウン駅で、ホールデンは煉瓦の高い箱を切符売場とする型を示す。以後のピカデリー線の駅では、切符売場が駅舎の主役となり、ガラスと鉄筋コンクリートがそれを形づくった。
名築が収録する1930年代の5件は、この型の変奏である。アルパートン駅(1930–31年)、サウス・ハーロウ駅(1935年)、レイナーズ・レーン駅(1938年)、イーストコート駅(1937–39年)は、いずれも煉瓦とガラスで切符売場を高く立ち上げ、平らなコンクリートの屋根で蓋をする。アルパートン駅とレイナーズ・レーン駅では、箱の上部にクリアストーリーをめぐらせて光を落とす。終着駅のアクスブリッジ駅(1938年)では、湾曲した煉瓦の正面に商店を組み込み、ホームの上に鉄筋コンクリートの大屋根を架け、エルヴィン・ボサーニのステンドグラスをはめた。

これらの駅は、どれも郊外の地上に建つ。レイナーズ・レーン駅の利用者は、周辺の住宅開発にともない、1930年の年間2万2千人から1937年には400万人へ増えた。新しい住宅地に建つ高く明るい切符売場は、街の目印の役を担ったとも読める。名築が収録するホールデンの駅のうち4件は、イングランドのグレードII指定建造物である。
モスクワ:地下に掘られた宮殿
名築が収録するモスクワの駅で最も古い3件は、いずれも第二次世界大戦のさなかに開業した。アフトザヴォーツカヤ駅(1943年1月)はアレクセイ・ドゥーシュキンの設計で、淡紅色の大理石の列柱が並び、壁には戦時の労働と戦闘を描く8面のスマルト・モザイクが掲げられた。セミョノフスカヤ駅(1944年1月)は「スターリンスカヤ」の名で開業し、側壁に剣や機関銃をかたどる浮彫を並べる。1950年まではモスクワ地下鉄で最も深い駅だった。
エレクトロザヴォーツカヤ駅(1944年5月)はパイロン式の深層駅である。中央ホールの天井には円形の照明が格間を埋めるように並び、地下とは思えない明るさをつくる。設計者のウラジミール・シューコは1939年に没し、ウラジミール・ゲリフレイフと門下の建築家が引き継いだ。
三つの駅で建築が向けられているのは、地上の外観ではなく地下の内部である。大理石も照明もモザイクも浮彫も、改札を抜けてエスカレーターを降りた先にある。ホールデンの駅が街路から見られることを前提にしたのに対し、モスクワの駅は乗客が中に入って初めて姿を現す。その内部を満たしたのは、スターリン様式の重厚な仕上げと社会主義リアリズムの図像である。
戦争の扱いも対照的である。ロンドンでは1940年10月、防空壕となっていたバラム駅の北端に爆弾が落ち、浸水で多くの死者を出した。建設中だったセントラル線の延伸も、同じ年に止まった。モスクワは同じ時期に、装飾を落とさない駅を開業させている。地下鉄を国家の威信の場とみなす姿勢がうかがえる。
ガンツ・ヒル:ロンドンが地下にホールを掘ったとき
止まったセントラル線の延伸区間に、ガンツ・ヒル駅がある。工事は1930年代に始まり、トンネルの大半は1940年までに掘り上げられたが、戦争で中断した。戦時中、駅の部分は防空壕に、隣のレッドブリッジ駅との間の未開通のトンネルは軍需工場に使われた。駅が開業したのは1947年12月である。
ホールデンはここで、自らの型を裏返した。駅舎らしい建物は地上になく、切符売場は環状交差点の真下に置かれた。その代わりに、二つのホームの間に長いコンコースを通し、樽型ヴォールトの天井を架けた。このコンコースは「モスクワ・ホール」と呼ばれ、ホールデンがモスクワの地下鉄を訪れた経験から着想したとされる。ガンツ・ヒル駅は、ホールデンが地下鉄のために手がけた最後の仕事の一つでもある。

名築が収録するロンドンの駅で、地下の内部に建築の主題を置いたのはガンツ・ヒル駅だけである。モスクワの駅を満たした大理石やモザイクや浮彫はここにはなく、タイルと照明で仕上げられている。借りられたのは装飾ではなく、空間の形だったとも読める。
宮殿から百足へ:1955年の号令
モスクワの駅の姿を変えたのは、建築の外から来た号令である。1955年11月、ソ連共産党中央委員会と閣僚会議は「設計と建設における過剰の排除について」を決議した。決議は簡素さと経済性を求め、モザイクのような手の込んだ装飾や、大理石・花崗岩のような高価な外装を退けた。以後、地下鉄の駅は個別の設計ではなく標準設計で建てられるようになる。
その最初の例が、1961年開業のペルヴォマイスカヤ駅である。地表近くを開削工法で掘り、箱形の躯体の中に二列の柱を等間隔で立てて天井を支える。林立する柱から「ソロコノーシカ(百足)」と呼ばれたこの型(百足駅)は、モスクワと旧ソ連各地に広がった。名築にはこのほか、アカデミチェスカヤ駅とレニンスキー・プロスペクト駅(1962年)、シチョールコフスカヤ駅(1963年)、レチノイ・ヴァクザール駅とヴォドニー・スタジオン駅(1964年)、カシールスカヤ駅とカホーフスカヤ駅(1969年)が並ぶ。


これらの駅を互いに分けるのは、ほとんど柱の大理石の色だけである。ペルヴォマイスカヤは赤みを帯び、シチョールコフスカヤは濃い緑、ヴォドニー・スタジオンは青み、レチノイ・ヴァクザールは白い斑の入った褐色、アカデミチェスカヤは白に黒の帯である。決議が退けたはずの大理石は、標準設計の柱の仕上げとして残った。アカデミチェスカヤ駅の路線は、同じ時期に建った規格集合住宅のチェリョームシキ地区へ延びている。住宅と同じ論理で駅が量産されたことがうかがえる。
このうち5駅は、ユリヤ・コレスニコワが設計に加わったものである。名築が収録するコレスニコワの駅は1962年から1978年までの7件あり、うち6件はニコライ・デムチンスキーとの共同である。規格駅は、少数の建築家が型を繰り返し当てはめることで量産された。
型を繰り返した点では、ホールデンも同じである。ただしロンドンの箱は地上で街路に向けて繰り返され、円形標識と組んで地下鉄網の顔を揃えた。モスクワの百足は地下で、費用と工期を詰めるために繰り返された。同じ反復でも、一方は見せるため、もう一方は節約するためのものだったとも読める。
装飾の回帰:駅名が主題になる
規格の中でも、工夫は少しずつ重ねられた。コレスニコワとデムチンスキーのカルージュスカヤ駅(1974年)は、角柱を先細りの八角柱に替え、柱の間隔を4メートルから6.5メートルに広げた。ヴィクトル・チェリョーミンらのコロメンスカヤ駅(1969年)は、同じ型の駅に、火の鳥や人魚を打ち出した銅の浮彫を掲げている。
転機は1975年12月に来る。この月に開業したクズネツキー・モスト駅は、1950年代以来初めての深層の柱式駅であり、柱をアーチで結んで橋のような連なりをつくった。駅名の「鍛冶橋」にちなむ金工も添えられている。同じ月のプーシキンスカヤ駅は、1950年代以降久しく採られなかった三ヴォールト式の構造をとり、19世紀風のシャンデリアで詩人プーシキンの時代を地下に再現した。
この回帰を一人でたどれるのが、ニーナ・アリョーシナである。名築が収録する彼女の駅は7件あり、最初の1件は装飾を排した1962年のレニンスキー・プロスペクト駅である。クズネツキー・モスト駅を経て、メドヴェドコヴォ駅(1978年)では北方の自然を主題に、流氷に乗る白熊やトナカイの橇を金属のパネルに表した。マルクシスツカヤ駅(1979年)は、弁証法の「螺旋的発展」を螺旋形の照明に置き換え、メンデレーエフスカヤ駅(1988年)は、分子の格子をかたどった照明を天井から吊るした。1995年のチカロフスカヤ駅は、飛行士チカロフにちなみ航空を主題とする。

戻ってきた装飾は、戦時の駅のそれとは性格が異なる。戦時の駅が国家の勝利と労働を描いたのに対し、1970年代以降の駅は、駅名に含まれる人物や地名や街路を主題にした。メドヴェドコヴォ駅の柱がプレハブで組まれたように、構造は規格を踏まえたまま、仕上げと照明で物語を語る方法である。
この方法は、ソ連の解体後も続いた。2010年に開業したドストエフスカヤ駅はレフ・ポポフの設計で、灰と白と黒の大理石の壁に、『罪と罰』などの場面を単色の壁画で描いた。陰鬱な主題を地下に描くことは、開業前に議論を呼んだ。
むすび
ロンドンとモスクワは、ともに地下鉄の駅を建築として扱ったが、建築を置く場所が違った。ホールデンの駅は地上に建ち、郊外の街路から見える箱として繰り返された。モスクワの駅は地下に掘られ、その内部の装飾は政治の号令とともに退き、また別の形で戻った。
二つの流れが交わるのはガンツ・ヒル駅だけであり、その場所は地上ではなく地下だった。戦争で工事を止めたロンドンが、戦時にも駅を開いたモスクワの空間を、戦後になって引用したことになる。各駅の詳細は、下の表から個別のページで確かめられる。












