建築様式史 — CHAPTER 12
鉄とガラスの世紀
Iron, Glass & the Skyscraper「様式を着せる」議論が華やかに続くその足下で、もっと根本的な革命が静かに進んでいた。鉄、ガラス、そして鋼——工場が生み出す新しい素材が、組積造という数千年の前提を覆し、博覧会の透明な大空間と、天をつく摩天楼を生み出していく。本章では、様式ではなく素材と構造が建築を変えた、19世紀の革命をたどる。
博覧会と工業の建築
産業革命は、建築の素材を一変させた。それまで石や煉瓦、木でしか建てられなかったものが、工場で大量に生産される鋳鉄と板ガラスによって、まったく新しい姿をとりはじめる。その劇的な幕開けが、1851年のロンドン万国博覧会のために建てられた水晶宮であった。設計したのは建築家ではなく、温室を手がけてきた庭師ジョゼフ・パクストンである。彼は、規格化した鉄とガラスの部材を工場で大量生産し、現場では組み立てるだけというプレファブの方法で、巨大な展示館をわずか数か月で建て上げた。全長は約560メートルに及び、敷地の大木をそのまま内部に取り込むほどの規模でありながら、構造は驚くほど単純な部材の反復でできていた。様式の装飾は一切なく、鉄の細い骨組みを透かして光が満ちるその空間は、人々を驚嘆させる。この鉄とガラスの大空間は、以後の鉄道駅の大屋根や温室、展示館の手本となっていく。建築が、職人の手仕事から工業生産の産物へと変わる瞬間であった。なお、宮そのものは博覧会後にロンドン南郊シデナムへ移築されて親しまれたが、1936年の火災で失われている。
鉄の記念碑
鉄の表現力をさらに押し進めたのが、1889年のパリ万国博覧会のために建てられたエッフェル塔である。高さ300メートルあまり、当時世界一を誇ったこの塔は、装飾をほとんどまとわず、錬鉄の骨組みそのものを堂々とさらしている。注目すべきは、これを設計したのが建築家ではなく、橋梁を手がける技師ギュスターヴ・エッフェルの事務所だったことである。風圧の計算に基づいて部材の一本一本が定められ、力の流れがそのまま塔の輪郭となった。塔は、工場で作られた一万八千もの錬鉄の部材を現地でリベット留めして組み上げたもので、ここでも工業化とプレファブの論理が貫かれている。完成当時は「醜い鉄の骨組み」と非難する芸術家も多く、そもそも20年で取り壊す約束の仮設物であった。だが無線通信の電波塔として有用だったことが塔を救い、構造の論理そのものを美とするこの建造物は、やがてパリの、そして近代の象徴となる。
摩天楼の誕生
新素材の革命は、大西洋の向こう、アメリカで別の方向へ花開く。摩天楼の誕生である。1871年の大火で焼け野原となったシカゴでは、地価の高い都心に、より多くの床面積が求められた。そこへ、二つの技術——安全エレベーターと鉄骨フレーム——が出会う。オーティスが1850年代に安全装置つきエレベーターを実用化したことで、人は階段なしに高層を上下できるようになっていた。厚い壁で建物を支える組積造には高さの限界があったが、鉄(のち鋼)の骨組みで荷重を担えば、建物はいくらでも高くできる。外壁は荷重から解放され、大きなガラス窓を開けられた。やがて外壁は構造から完全に切り離され、ガラスの被膜——カーテンウォールへと向かう。こうして生まれた高層オフィスビルの一群が、「シカゴ派」と呼ばれる。高く積み上がるこれらの建物は、やがて「摩天楼(スカイスクレイパー)」の名で呼ばれるようになった。ウィリアム・ル・バロン・ジェニーのホーム・インシュアランス・ビルが鉄骨造の先駆とされ、ルイス・サリヴァンは、セントルイスのウェインライト・ビルで、その高さを垂直の線として強調し、摩天楼に美学を与えた。
構造表現の萌芽
水晶宮、エッフェル塔、そして摩天楼に共通するのは、構造そのものを隠さず、むしろ見せることを表現とする態度である。同じ精神は、ロンドンのセント・パンクラスやパリの駅を覆う、鉄とガラスの壮大な大屋根にも息づいていた。「鉄の大聖堂」とも呼ばれたこれらの駅は、新素材がつくる近代の祝祭空間であった。サリヴァンが唱えた「形態は機能に従う」という標語は、これを端的に言い表す。歴史的様式を建物に「着せる」のではなく、建物が果たす働きと、それを支える構造から形を導く——この思想は、装飾を排した近代建築(モダニズム)を、半世紀も先取りするものであった。ただし、これらの素材革命の建築家・技師たちは、必ずしも装飾そのものを否定したわけではない。サリヴァンは繊細な装飾を愛し、エッフェル塔の脚にも優美な曲線が添えられている。鉄とガラスが切り開いた可能性に対し、世紀の変わり目には、むしろ手仕事と装飾、自然の生命力を取り戻そうとする運動が起こる。次章では、その世紀末の反逆——アーツ&クラフツとアール・ヌーヴォーへと向かう。