ブレナム宮殿 Blenheim Palace
イングランド、オックスフォードシャーのウッドストックに立つマールバラ公爵家の邸宅。ブレナムの戦いの褒賞として1705年に着工し、ジョン・ヴァンブラがニコラス・ホークスムアと設計したイングランド・バロックの代表作で、ウィンストン・チャーチル生誕の地でもある。
§1 — 概要概要
ブレナム宮殿(Blenheim Palace)は、オックスフォードの北西、ウッドストックの広い庭園のなかに立つカントリー・ハウスで、歴代マールバラ公爵の居館である。1704年のブレナムの戦い(現ドイツ・バイエルン州ブリントハイム近郊)でフランス・バイエルン連合軍を破った初代マールバラ公ジョン・チャーチルへの国家的な褒賞として計画され、戦場の名がそのまま邸宅の名になった。設計はジョン・ヴァンブラで、実務に通じたニコラス・ホークスムアが協働した。王族や主教の住まいでない私邸が「宮殿」を名のる、イングランドでは唯一の例とされる。1874年には、のちの首相ウィンストン・チャーチルがここで生まれた。
歴史
敷地は王室の旧狩猟地ウッドストック・パークで、アン女王から公爵に与えられ、議会も建設費の支出を認めた。工事は1705年に始まる。しかし支出の額は定められておらず、公爵夫人サラと女王の関係が悪化すると国庫からの支払いは滞り、1712年に打ち切られて工事は止まった。公爵夫妻は大陸へ退き、女王が没した1714年に帰国する。
1716年、公爵は自費で工事を再開したが、翌年に病に倒れ、以後は倹約家の公爵夫人が現場を取り仕切った。もともとクリストファー・レンを推していた夫人はヴァンブラの構想を浪費と非難し続け、ヴァンブラは現場を去る。1722年に公爵が没すると、夫人はホークスムアを呼び戻して図書室の内装や、町の側の入口に立つ凱旋門(1723年)を仕上げさせた。主要部は1722年ごろまでに整ったとされるが、礼拝堂の完成は1730年代に下る。
1764年以降、第4代公爵に招かれたランスロット・“ケイパビリティ”・ブラウンが庭園を全面的に改め、グライム川をせき止めて大きな湖を生み出した。19世紀には一族の財政が傾き、第7代公爵は美術品や蔵書を売却したが、1895年に第9代公爵がアメリカの鉄道財閥の令嬢コンスエロ・ヴァンダービルトと結婚し、その持参金によって邸宅は修復された。
建築的特徴
ヴァンブラは、住まいであると同時に国家の記念碑であることを求められたこの建物を、遠くから眺めて効果を発揮するよう構成した。中心となる主棟(コール・ド・ロジ)の左右に、厨房棟と厩舎棟がそれぞれ中庭を囲んで配され、三棟が前面に大きな前庭(グレート・コート)をつくる。北面の入口には神殿の正面を思わせる巨大なポルティコが立ち、主棟の四隅の塔には、石を積み上げた見晴らし台風の頂部が載る。煙突を装飾の陰に隠し、屋根の上に戦利品や彫像を並べたこの量塊的な造形を、ヴァンブラは「城の気配」と呼んだ。
主要な部屋はすべてピアノ・ノービレに並び、北のホールから南のサルーンへ一直線の軸が通る。高さ約20メートルのホールの天井にはジェームズ・ソーンヒルが公爵の栄光を描き、サルーンの壁と天井はルイ・ラゲールのトロンプ・ルイユで覆われる。西側の全長を占める長さ約56メートルの図書室はホークスムアの設計で、ホールの石彫や屋根の彫像の多くは木彫家グリンリング・ギボンズの手になる。
庭園では、ヴァンブラが湿地に架けた巨大な橋の下層を、ブラウンが湖の水面下に沈めて風景に収めた。南面の整形式のパルテールを芝地に変えたのもブラウンで、園内はイギリス式風景庭園の代表例とされる。
意義・現在
ブレナムは、大陸のバロックに呼応してイングランドで短期間栄えた様式の到達点の一つである。一方で、建設をめぐる政争と浪費の非難はヴァンブラの評価を損ない、同じ時期のイングランドでは、より抑制されたパッラーディオ主義が主流へ移っていった。現在もマールバラ公爵家が住む一方、邸宅と庭園は一般に公開され、チャーチルの生まれた部屋は常設展示となっている。1987年にユネスコ世界遺産に登録され、邸宅はイングランドの第一級指定建築物、庭園も第一級の登録庭園である。