聖墳墓教会 Church of the Holy Sepulchre
エルサレム旧市街に建つキリスト教最大の聖地。イエスが磔刑に処されたゴルゴタと、埋葬され復活したとされる墓の双方を一つの屋根の下に収める。4世紀の創建以来、破壊と再建を重ね、現在は6宗派が分有する。
§1 — 概要概要
聖墳墓教会は、エルサレム旧市街のキリスト教徒地区に建つ教会である。東方の教会では「復活教会」(アナスタシス)と呼ばれる。伝承上、イエスが磔刑に処されたゴルゴタ(カルワリオ)と、埋葬され復活したとされる空の墓の双方をその内部に収めており、4世紀以来、キリスト教の巡礼の中心であり続けてきた。現在はエルサレムのアルメニア総主教座、ギリシャ正教総主教座、ラテン総主教座が同時に座を置いている。
歴史
紀元70年の攻囲によりエルサレムは廃墟となった。130年、ローマ皇帝ハドリアヌスは同地にアエリア・カピトリナの建設を始め、135年頃には岩を掘った墓のある洞窟を埋め立てて、その上にユピテルないしウェヌスの神殿を建てさせた。
326年頃、コンスタンティヌス帝はこの神殿を撤去して教会を建てるよう命じる。神殿が壊され土砂が除かれると、エルサレム司教マカリオスがイエスの墓と同定した岩窟の墓が現れた。建築家ゼノビオスの計画により、墓を覆う円形のロタンダ(アナスタシス)と、中庭を挟んで東側に建つ大バシリカ(マルティリウム)という、二つの別個の構築物が建てられた。ゴルゴタは中庭の一隅にあたる。教会は335年9月13日に献堂された。
コンスタンティヌスの聖域は火災で失われ、1009年にはファーティマ朝のカリフ、ハーキムによって破壊された。再建はその子の代に許され、皇帝コンスタンティノス9世モノマコスと総主教ニケフォロスのもと1048年に完成する。1099年に十字軍がエルサレムを占領すると、教会はロマネスクの意匠で改装され、鐘楼が加えられた。それまで別々だった小聖堂群を一つの屋根の下にまとめるこの工事は、女王メリザンドの治世下の1149年に完了する。聖地が単一の建物へ統合されたのは、このときが最初である。
1808年の火災でロタンダのドームが崩落し、アエディクラの外装も砕けた。1809年から翌年にかけて、ミティリニ出身の建築家ニコラオス・コムネノスが、当時のオスマン・バロックの意匠でこれらを建て直している。20世紀に入るとアエディクラの外装は剥落が進み、1947年から2016年まで英国当局が据えた鉄骨で締め上げられていた。2016年5月から2017年3月にかけて修復が行われ、鉄骨はようやく外された。
建築的特徴
この教会は単一の設計ではなく、1700年にわたる増改築の堆積である。中心にあるのはアナスタシスのロタンダで、その円形空間の中央に、キリストの墓を覆うアエディクラが独立して建つ。聖遺物や聖地を囲って示す集中式の記念空間と、会衆を収めるバシリカの縦軸という初期キリスト教建築の二つの原理が、ここでは一つの敷地に並置された。ロタンダの周囲は周歩廊がめぐる。
十字軍は東側にロマネスクの聖堂を建て、ゴルゴタの岩を上階の礼拝堂として建物の内部に取り込んだ。ハドリアヌスの神殿の地表面まで掘り下げられた空間は、聖ヘレナ礼拝堂(クリプタ)に転用されている。異なる時代・異なる工匠の仕事が、もはや切り離せないまま積み重なっている点にこの建物の特質がある。
意義・現在
1757年に成立した「現状維持(ステータス・クオ)」と呼ばれる取り決めが、いまなおこの教会を規定している。ローマ・カトリック、ギリシャ正教、アルメニア使徒教会、コプト正教、シリア正教、エチオピア正教の6宗派が建物の各部分を分有し、その配分は160年以上ほとんど変わっていない。扉の開閉から修繕の一つ一つまでが宗派間の合意を要するため、この建物では保存がそのまま交渉になる。2016年からのアエディクラ修復が実現したこと自体、その合意という難関を越えた例外的な出来事だった。教会は「エルサレムの旧市街とその城壁群」の構成資産として1981年に世界遺産に登録されている。