フランス東部クリュニーに910年に創建されたベネディクト会修道院。西欧各地の修道院を束ねたクリュニー会の本拠で、1088年起工の第3聖堂は16世紀まで西欧最大の教会堂だった。革命後に大半が解体され、翼廊の一部などが残る。
§1 — 概要概要
クリュニー修道院(Abbaye de Cluny)は、フランス東部ソーヌ=エ=ロワール県のクリュニーに910年に創建されたベネディクト会修道院である。世俗の領主や司教の支配を受けず、教皇にのみ服属する特権を背景に、10〜12世紀には西欧各地の数百の修道院を傘下に収める「クリュニー会」の本拠となった。聖堂は3度にわたって建てられ、最後の第3聖堂(通称クリュニーIII)は、16世紀にローマのサン・ピエトロ大聖堂が再建されるまで西欧最大の教会堂であった。ロマネスク建築の到達点とされるが、フランス革命後に大部分が取り壊され、現存するのは往時の床面積の1割に満たない。
歴史
910年、アキテーヌ公ギヨーム1世が所領を寄進し、ボーム修道院長ベルノンを初代院長として修道院が創設された(創建を909年とする説もある)。最初の聖堂(クリュニーI)はベルノンのもとで着工され、927年以前に献堂された。第4代院長マイウールの時代には第2聖堂(クリュニーII)が建てられ、981年に献堂された。石造のヴォールトを架けたこの聖堂は、ブルゴーニュ地方で教会堂の石造天井が広まる先駆けとなった。
11世紀後半、院長ユーグ・ド・スミュールのもとで会が最盛期を迎えると、はるかに大規模な聖堂が計画された。第3聖堂は1088年に起工され、1095年に教皇ウルバヌス2世が主祭壇を聖別し、1130年に教皇インノケンティウス2世による献堂を迎えた。西側の前廊(ナルテクス)はその後も工事が続き、13世紀前半にゴシック様式で完成した。巨額の建設費は、カスティーリャ=レオン王が毎年寄進した金貨に大きく支えられていた。聖堂の平面については、修道士グンゾが夢のなかで聖ペトロから示されたという伝承が残り、実際の計画と工事の指揮にはリエージュの聖堂参事会員エズロンが招かれたとされる。
会は14世紀以降しだいに勢いを失い、1790年に革命政府によって廃止された。建物は1797〜98年に売却され、1798年から聖堂の解体が始まり、1823年頃まで町の建設資材を供給する石切り場となった。1830年代から遺構を保存する機運が高まり、1862年に歴史的記念物に指定された。1920年代後半からはアメリカの考古学者ケネス・J・コナントが発掘調査を重ね、失われた聖堂の姿を復元的に明らかにした。
建築的特徴
コナントらの復元によれば、クリュニーIIIは前廊を含めて全長約187メートルに及んだ。11ベイの身廊の両側にそれぞれ2列の側廊を配した五廊式で、東寄りに大小二つの翼廊が交差し、横木を2本もつ大司教十字形の平面をつくる。内陣は周歩廊と5つの放射状祭室に囲まれ、交差部や翼廊の上には複数の塔が立ち上がった。
身廊は高さ約30メートルの樽型ヴォールトで覆われ、その断面は尖頭アーチの形をとった。壁面は尖頭アーチの大アーケード、盲アーケード、クリアストーリーの三層で構成された。縦溝を刻んだピラスターなど古代ローマ建築に由来する細部が多用され、厚い壁の量塊に上昇感と古典的な秩序を与えていた。尖頭形のヴォールトで横へ広がる力を抑え、高い身廊を実現した点は、のちのゴシック建築を準備したものと評価されている。
現存するのは、大翼廊の南腕とその上に立つ八角形の「聖水の鐘塔(Clocher de l'Eau-Bénite)」、小翼廊の南腕、正面を挟んでいた二塔の基部、前廊の下部などに限られる。修道院の居住棟は17〜18世紀に建て替えられたもので、回廊を囲む古典主義様式の端正な翼部が残る。
意義・現在
クリュニーIIIの五廊式の身廊や二重の翼廊、古典的な細部は、各地の従属修道院を通じて広く参照され、ブルゴーニュ・ロマネスクの規範となった。近郊のパレ=ル=モニアルの聖堂は、失われた第3聖堂の姿を縮小して伝える作例とされる。
遺構の一部は1901年から国立高等工芸学校(アール・ゼ・メティエ)のキャンパスとして使われ、残された翼廊や付属の博物館は見学に供されている。2000年代末からは同校を中心に第3聖堂の3次元デジタル復元が進められ、発掘成果に基づく失われた空間の再現が試みられている。