キーウ・ペチェールシク大修道院 Kyiv Pechersk Lavra
ドニプロ川を望む丘の洞窟に1051年発した、ウクライナ正教の大修道院。地下の洞窟墓所と18世紀ウクライナ・バロックの伽藍からなり、2026年6月にロシア軍の無人機攻撃で主聖堂が損傷した。
§1 — 概要概要
キーウ・ペチェールシク大修道院(Києво-Печерська лавра)は、ウクライナの首都キーウ、ドニプロ川右岸の丘に広がる正教の修道院である。「ペチェーラ」は洞窟を意味し、修道士が掘った地下の洞窟群を起源とすることに名が由来する。正教会で最上位の修道院に与えられるラヴラの称号をもち、東欧正教世界の信仰と学芸の中心として千年近く機能してきた。地上の伽藍の多くは、18世紀の再建でウクライナ・バロックの装いに整えられている。
歴史
『原初年代記』は創建を1051年とも1074年とも伝える。アトス山で修行した修道士アントニーがベレストヴォの丘の洞窟に住み、弟子が集まったのが始まりとされる。キーウ大公イジャスラフ1世が丘を修道士に譲り、コンスタンティノープルから招かれた工匠が地上の聖堂を建てた。主聖堂である生神女就寝大聖堂は、1073年から1078年にかけて建設されている。
修道院は年代記や『ペチェールシク聖者列伝』を生んだ学芸の拠点であると同時に、たびたび破壊された。1096年のポロヴェツによる略奪、1240年のバトゥによる攻囲、1416年と1482年の焼き討ちがそれである。16世紀後半にコンスタンティノープル総主教から直属の地位を得てラヴラを称し、17世紀にはペトロ・モヒラらのもとで印刷所と学校を擁する文化の中心となった。1718年の大火で図書館と文書庫を焼失すると、その再建を機に伽藍はバロック化する。1731年から1745年にはゴットフリート・シェーデルの設計で高さ96.5メートルの大鐘楼が建ち、当時の自立式鐘楼として世界最高であった。ラヴラの農奴から棟梁となったステパン・コヴニルは、60年近くにわたり境内の建物を手がけている。
1926年に修道院は解散させられて博物館となり、1941年11月3日には撤退するソビエト軍の爆破によって生神女就寝大聖堂が失われた。再建は独立後に進み、2000年に成聖されている。
建築的特徴
境内は、地上の伽藍群と、近洞窟・遠洞窟と呼ばれる二つの地下回廊からなる。洞窟は幅1メートルほどの通路が総延長で数百メートルに及び、修道士の遺体を壁龕に安置する墓所と、小規模な地下聖堂を含む。
地上の建築を特徴づけるのは18世紀のウクライナ・バロックである。白い壁面に金色の洋梨型ドームを載せ、切妻や窓まわりを植物文のスタッコで飾る手法が、時期の異なる建物群に統一感を与えている。大鐘楼は四層構成で、上三層にドリス式・イオニア式・コリント式の柱を順に重ねる古典主義的な構成をとり、コリント式の柱頭は一つとして同じ形のない陶製である。聖堂内部はイコノスタシスで至聖所を仕切る正教の作法に従う。
意義・現在
ペチェールシク大修道院は、キーウ・ルーシの信仰がこの地に根を下ろした場所であり、17世紀から19世紀にかけて正教の思想を東欧に広める役割を担った。1990年に聖ソフィア大聖堂とともに世界遺産に登録され、ロシアによる侵攻を受けて2023年9月に危機遺産リストへ加えられている。近年は境内の管轄をめぐる係争があり、2023年にウクライナ政府はウクライナ正教会(モスクワ総主教庁系)との主要聖堂の使用契約を解除した。
2026年6月15日未明、ロシア軍の攻撃型無人機が生神女就寝大聖堂を直撃して屋根が炎上し、約800平方メートルが損傷した。屋根の応急被覆を含む保全措置は6月下旬に完了し、本格的な修復の準備が進められている。修道院は現在も活動を続けている。