EST. 2026 — Editorial Archive of Notable Architecture
メリリャ・ラ・ビエハ
© TonioMora / CC BY-SA 4.0
FIG. 01 — Q6812419

メリリャ・ラ・ビエハ Melilla la Vieja

Melilla la Vieja

北アフリカ沿岸のスペインの自治都市メリリャで、海に突き出た岩の半島を占める城塞。1497年のカスティーリャによる占領後、陸側へ四つの囲郭が段階的に築かれ、16世紀の城門や塔と17〜18世紀の稜堡を今に伝える。

FIG. 02 — Location35.2940° N 2.9340° W
スペイン メリリャ メリリャ
§1 — 概要

概要

メリリャ・ラ・ビエハ(Melilla la Vieja、「旧メリリャ」の意)は、北アフリカの地中海沿岸にあるスペインの自治都市メリリャで、港の北側に突き出た岩山の半島に築かれた城塞である。16世紀以降、陸側へ段階的に拡張された四つの囲郭(レシント)からなり、全体はおよそ2キロメートルにわたって延びる。都市の発祥地をそのまま包み込んだ城塞で、スペインに残る近世の要塞のなかでも有数の規模をもつ。

歴史

この岬には古代にフェニキア人が交易拠点ルサディルを開き、その後カルタゴとローマの支配を経た。10世紀には後ウマイヤ朝のもとで城壁が築かれたが、15世紀後半には町はさびれ、防備も荒廃していた。1497年、メディナ・シドニア公に仕えるペドロ・デ・エストピニャンがカトリック両王の承認を得て占領し、以後カスティーリャの拠点となる。当初は木材を組んだ仮設の防御で急場をしのぎ、1515年に石造の城壁(ムラーリャ・レアル)の建設が始まった。

最初の囲郭は、その後の半世紀をかけて火砲の時代に見合う姿へ改められていった。1527年にはカール5世(スペイン王カルロス1世)の求めで、イタリア人技師ガブリエーレ・タディーノ(タディーノ・ダ・マルティネンゴ)が工事を点検して塔を改修した。1549年からは技師ミゲル・デ・ペレアが陸側の正面を造り直し、サンティアゴ門とその堀、門脇の礼拝堂を築いた。1551年にペレアが没すると、フランシスコ・デ・メディナやフアン・デ・スリタらが工事を引き継いでいる。

17世紀以降は、陸側へ向けて第二・第三・第四の囲郭が順に加えられた。1669年には16世紀の塔を土台にコンセプシオン・アルタ稜堡が築かれ、17世紀末から18世紀初めにかけて、サン・ホセ稜堡、ビクトリア門、岩盤を掘り込んだオルナベケの堀が整えられた。1774年から翌年にかけては、モロッコのスルタン、ムハンマド3世による100日を超える包囲に耐えている。18世紀後半には王立病院(オスピタル・デル・レイ)や食糧倉庫も建てられた。19世紀に市街が城外へ広がると、城塞は防衛の最前線としての役割を次第に終えた。

1953年に歴史芸術地区に指定され、現在はスペインの文化財保護制度で最も手厚い区分である文化財(Bien de Interés Cultural)として保護されている。20世紀には荒廃も進んだが、近年は欧州連合の基金なども用いて修復が続けられてきた。

建築的特徴

最も古い第一囲郭は岬の頂部を占め、海側・東側・北側・陸側の四つの面の城壁で囲まれる。16世紀の城壁は白っぽい切石積みで、円筒形や半円形の塔(トレオン)を要所に配する。こうした丸い塔は、デューラーが築城論で描いた円形の砲塔に通じるもので、角張った稜堡が普及する前の過渡的な築城法を示している。

陸からの入口となるサンティアゴ門は、1549年にペレアが築いた半月堡状の外塁である。堀に面して二つの塔に挟まれた半円アーチの門を開き、通路は折れ曲がって内へ導かれる。門の上にはカール5世の紋章が掲げられ、堀を渡る橋は1680年に跳ね橋に改められた。門の脇に1551年に建てられたサンティアゴ礼拝堂は、ティエルスロン(枝リブ)を加えたリブ・ヴォールトを架けたゴシックの小堂で、アフリカ大陸では稀なゴシック建築の遺例として知られる。

17世紀以降の外側の囲郭では、築城の方法が変わる。第二・第三囲郭には角形に突き出した稜堡が加えられ、イタリアで確立した稜堡式城郭の考え方に沿って、側面からの射撃で城壁の前面を守る仕組みが整えられた。囲郭どうしは岩盤を掘り込んだ深い堀で隔てられ、跳ね橋と門で結ばれる。岩山の内部には地下通路や洞窟が掘られ、コンベンティコ洞窟のように包囲時の避難所や倉庫として使われた空間が残る。1571年に設けられた地下の貯水槽(アルヒベス)は、砂と砂利による濾過槽を備えた給水施設である。

意義・現在

メリリャ・ラ・ビエハでは、中世の城の名残をとどめる丸い塔から近世の稜堡まで、築城術の移り変わりを一つの場所で重なり合う層として読み取ることができる。岬の地形に合わせて囲郭を継ぎ足していった構成は、本国から海を隔てた小さな拠点を、包囲に耐えながら長く維持するための工夫の積み重ねでもあった。

現在、城内の建物の多くは文化施設に転用されている。コンセプシオン・アルタ稜堡には軍事博物館が置かれ、18世紀の倉庫には歴史・考古・民族学の博物館が入り、王立病院の建物は市の文書館や展示施設として使われている。東側の城壁の塔の上には1918年に灯台が建てられ、いまも港の目印となっている。

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LAST EDIT — 2026.09.30
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