デリーに築かれたムガル帝国の城塞宮殿。第5代皇帝シャー・ジャハーンが新都シャージャハーナーバードの中枢として1639年に着工し、1648年に完成させた。赤砂岩の城壁と白大理石の謁見殿が、帝国の絶頂期の意匠を今に伝える。
§1 — 概要概要
赤い城(ラール・キラー)は、インドのデリー旧市街の北東、ヤムナー川に面して立つムガル帝国の城塞宮殿である。周囲約2.4キロメートルの城壁が約103ヘクタールの敷地を囲み、壁の高さは市街側で約33メートル、川側で約18メートルに達する。名の由来である赤褐色は、建材に用いた赤砂岩のものである。城壁の内側には市場・謁見殿・後宮・浴場・庭園が東西の軸線に沿って配され、要塞であると同時に帝国の政庁であり、皇帝の居所でもあった。ムガル建築の到達点とみなされ、2007年に隣接するサリームガル城とあわせて世界遺産に登録された。
歴史
シャー・ジャハーンはアーグラからの遷都を決し、自らの名を冠した新都シャージャハーナーバードを造営した。その中核として1639年に築造が始まり、9年を経た1648年に完成する。設計はタージ・マハルを手がけたとされるアフマド・ラーホーリーに帰されるが、同時代の確証は乏しく、帰属は伝承の域を出ない。城壁が左右対称でないのは、既存のサリームガル城を敷地内に取り込んだためである。第6代アウラングゼーブは1659年に白大理石の真珠モスク(モーティー・マスジド)を私的な礼拝所として加え、二つの主門の前に馬出しを設けて動線を屈折させた。
18世紀に入ると帝国の衰退とともに城も荒れる。1739年、ナーディル・シャーの侵攻によって城は略奪され、孔雀の玉座が持ち去られた。1760年にはマラーター勢が貴賓謁見殿の銀の天井を剥がして鋳潰している。決定的だったのは1857年のインド大反乱で、鎮圧後にイギリスは城内建築のおよそ八割を取り壊し、跡地に石造の兵舎を建てて駐屯地とした。川に面して並んでいた列柱の透かし壁もこのとき失われている。20世紀初頭に総督カーゾンが城壁と庭園の修復に着手し、1913年には国の重要記念物に指定された。1947年8月15日、初代首相ネルーがラホール門の城壁に国旗を掲げ、以後、独立記念日の演説はここから行われている。2003年にインド軍からインド考古局へ移管され、保存整備と博物館の整備が進む。
建築的特徴
平面は不整形の八角形に近く、南北軸が東西軸より長い。西の正門ラホール門をくぐると、屋根で覆われた市場チャッタ・チョウクが続き、その先に楽の間ナッカル・カーナが立つ。ここを抜けた奥に一般謁見殿ディーワーニ・アームがある。柱の並ぶ開放的な広間で、波形に刻まれた多弁アーチが連なり、もとは白い漆喰で仕上げられていた。奥壁の高い龕には皇帝が姿を現す露台(ジャローカー)が設けられ、その背後の壁面は花鳥文の硬石象嵌で飾られる。ヨーロッパ由来と考えられる図像を含む点で、当時の宮廷が受け入れた美術の幅を示す。
さらに奥の川沿いには、白大理石の館が一列に並ぶ。貴賓謁見殿ディーワーニ・カースには、地上に楽園があるならばそれはここだ、と讃えるペルシア語の詩句が刻まれている。皇帝の居室ハース・マハル、女性たちの館ラング・マハルとムムターズ・マハルが続き、これらの床を「楽園の川」を意味する水路ナハリ・ビヒシュトが貫いて涼を運んだ。壁面にはジャーリーの透かし彫りが嵌められ、直射日光を和らげながら風を通す。北東部の庭園ハヤート・バフシュ・バーグは水路で四分割されるチャハル・バーグの構成をとり、水路の両端に白大理石の亭が向き合う。屋根の稜線にはチャトリが載り、赤砂岩の重厚な壁と白大理石の軽やかな造形との対比が全体を統御している。
意義・現在
赤い城は、ペルシア・ティムール朝の宮廷建築の型を受け継ぎながら、インドの素材と職人技を取り込んで完成させた「シャージャハーニー様式」の代表作である。庭園を軸に館を配する構成は、その後の南アジアの宮殿建築に規範を与えた。一方で現存するのは往時の一部にすぎず、失われた建物の輪郭は今も英領期の兵舎に置き換わったままである。城は独立記念日の国旗掲揚の舞台としてインドの国家的記憶と結びついており、建築遺産であると同時に政治的な象徴でもある。現在は複数の博物館が置かれ、旧デリーの都市空間を読み解く起点として公開されている。